親への服従は絶対――『よく宗教勧誘に来る人の家に生まれた子の話』は、かつて「良い子」を演じたことのある全ての人に刺さる一冊

画像はヤングマガジンサードの公式ページのキャプチャ

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例えば、小学生のさやがクラスメイトの家で楽しく遊んで帰ってきたときのエピソード。母親はさやの感想を聞き終わらないうちに「楽しくなかったでしょ?」「楽しいわけないよね」と畳みかける。

母親が信じる宗教は、死後に楽園で永遠の命を得るのが最終目的で、そのためには教義の厳守が必須だ。子どもと一緒に楽園に行くには「世の人(異なる宗教の人たち)と必要以上に関わらない」との教えを履行しなければならないため、さやが違う宗教の子どもと遊んで楽しいと感じるのは、母親にとって都合が悪く、矯正しなければならない。

さやは母の問いかけに、作り笑いで「楽しくなかった」と答えるのだが、幼いさやに、母親の言うことに意見する選択肢は現実的にはない。痛々しいシーンだ。

他にも、年相応の華やかな服は「サタンの服」と言われて着るのを許されなかったり、布教活動に行くのを渋ればベルトでお尻を叩かれるなど、さやは母親に、教義を守る「良い子」であるようしつけられていく。ベルトでお尻を叩くのは一般的には体罰だが、教団内で使われる聖典の「愚かさが少年の心につながれている。懲らしめの鞭棒がそれを彼から遠く引き離す」などの記述を根拠に、子どもへの必要な指導として容認・推奨されている。他の子どもの親たちも「ぜーんぶこの子たちのためだもんね」と信じて疑うことなく、ゴルフのグリップなどで子どもを叩いていることを匂わせる描写がある。

「宗教だから特別起きる」と矮小化していいのか

学校行事や日常生活で不自由を感じながらも母親を尊重するさやは、母の目に「良い子」と映ったことだろう。しかし、我慢には限界もある。高校生になったさやは信仰との決別を宣言し、大学進学と共に自由の身になるのだが、ここでハッピーエンドとはいかず、新たな苦しみも生まれていく。

巻末には、特定の団体や信教の自由を否定するものではないとの但し書きがある。確かに告発本のような体裁ではないし、さやが母親を憎んでいるような描写は一切ない。しかし作者はあとがきに「描いていて辛い気持ちになることもあった」と記しているように、成長過程で信仰を強要された影響が、今でも続いていることは間違いない。

また、エピソードひとつひとつを眺めると、この宗教だから特別起こったと矮小化して良いようにも思えない。意思や感情を自由に表現できない家庭に育った人、コミュニティ内で特定の価値観を強いられている人も、他人から強制された「良し悪し」の価値観に縛られのびのび振舞えない点では、さやと同じような苦しみや葛藤を抱えていると言える。

特定宗教の2世信者でなくても、かつて、他人の言うことを良く聞く「良い子」を演じていた・現在演じている人たちには、響く一冊かもしれない。

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