私の27歳──始まりはインドネシアから。私がハイブリッドキャリアを確立するまで | キャリコネニュース - Page 2
おかげさまで10周年 メルマガ読者数
65万人以上!

私の27歳──始まりはインドネシアから。私がハイブリッドキャリアを確立するまで

▲五感を総動員して伝えるし、伝わった実感がある。これが異文化コミュニケーションの醍醐味じゃないかな

▲五感を総動員して伝えるし、伝わった実感がある。これが異文化コミュニケーションの醍醐味じゃないかな

平均寿命から逆算すると、人生の3分の1を迎える「27歳」。社会の中でそれなりに経験を積んできたけど、まだまだ必死、一人前とは言い切れない……。そんな揺れ動くこの時期をどう過ごしたのか。ヒューマンアカデミーで働くイファスイ(田中)奈緒の「27歳」を追いました。あなたはどんな27歳を送っていましたか?【talentbookで読む】

相手の背景を知って、伝えたい、関わりたい。それが原点にある想い

ナイジェリア人の夫は、ミンチ肉を「肉」と認めてくれないんですよね。

「今日は肉料理だね」と満足してくれるのは、決まって骨付き肉。手羽先は骨までバリバリ食べます。だからわが家はカレーも煮込み料理も、基本、骨付き肉。私はさすがに骨まで食べることはないですけどね(笑)。

夫とは友人の紹介で出会いました。

当時日本語教師をしていた私が、プライベートで日本語を教えてあげることになって、それがきっかけでしたね。

文化の違いみたいなものは、そりゃあもうたくさん!

夫が家事・子育てにいっさい関与しないとか、夫の友人がナイジェリアから来日すると知らされたのが来る直前だとか、その友人が1カ月くらいわが家に滞在してるんですけど!?とか……。

びっくりすることも多いですよ。でも私はそこで「わかりあえない」と諦めることはなくて、なぜその考えなのか、なぜその言動なのかという理由や背景を知りたいなって思うんです。

ひも解いていくと、夫の母国では家事・子育ては女性の聖域であること、予定や時間通りに動くという感覚がないことなどがわかってくる。

そうやって相手の背景を理解しながらコミュニケーションを取っていくことで、ありのまま受け入れられるようになるんですよね。

私はもともと好奇心旺盛で、とにかく人と接することが好き。日本人はもちろん、知らない世界の人とつながることでその国のことや新しい価値観を知ることができるって、とても魅力的だなと思うんです。

大学時代にボランティアで訪れたカンボジアで、その醍醐味を味わいました。英語も日本語も通じないバイクタクシーの運転手に、ジェスチャーを交えて「ここで待ってて」と伝えて戻ってみたらちゃんと指定の場所で待っててくれたんです!

「やった、伝わった!」

もうメッチャ嬉しくて、これまで得たことのない感情でいっぱいになりました。

どうにかして伝えようとしたことがちゃんと届いていたっていう瞬間は、何度味わっても感動にあふれます。もちろん伝わらないことだってあるけど、それも異文化としておもしろいと感じられるんですよね。

「いつかは日本語教師になりたい」。

それからの私は、唯一話せる日本語を武器に、その想いを膨らませていきました。

その夢を頭の片隅に置きながらも、まずは社会人としての基礎を身に付けるべく、教育事業を展開しているヒューマンアカデミーに入社。営業職として社会人としてのスタートを切ったんです。

このときはもちろん、営業職と日本語教師とを両立できる道があるなんて、夢にも思わなかったんですけどね。

27歳。インドネシアで本格始動した「日本語教師のキャリア」

▲右から2番目が私。インドネシアで最初に日本語を教えた、看護師、介護士のメンバーと

▲右から2番目が私。インドネシアで最初に日本語を教えた、看護師、介護士のメンバーと

ヒューマンアカデミーで営業として働きながら、長期休みには大学時代からボランティアをしているカンボジアに行くこともありました。すると、「ああ、やっぱり日本語教師の仕事をしたいな」という好奇心がムクムクと湧いてくるんです。

自分の気持ちに嘘はつけない。今、挑戦したい。

それからの私は、夢だった日本語教師の道に進むべく、夜は日本語教師養成講座で学び、昼は非正規社員として営業職に携わるという日々を送ります。当時はNGOの活動にも参加していて、アクティブに動くことも楽しかったですね。

そうして講座を修了し、胸を張って「日本語教師です!」と言えるときがやってきました。

このタイミングで、ヒューマンアカデミーが国から受託したEPA事業(EPA協定に基づく、インドネシア人看護師・介護福祉士候補者に対する訪日前日本語研修事業)に応募し、合格。半年間にわたるプログラムのうち4カ月間、インドネシアに派遣されることが決まったんです。

こうして私の日本語教師のキャリアは、異国の地でスタートを切ることとなりました。

──27歳で降り立ったのは、インドネシア・ジャカルタ国際空港。

その日も東南アジア独特の湿度と暑さだったのを覚えています。

教える対象は、日本で就労予定のインドネシア人の看護師や介護士。

日本語の事前研修をして、安心して渡航・就労してもらうことが目的です。「日本で看護や介護を学びたい」という意欲的な生徒が多く、クラスはとても活気がありましたね。

ただ、授業が進むにつれて、看護や介護の専門用語が出てきます。もちろんカリキュラムに沿って教えることはできますが、その業界で働いたことのない私は、実際の現場でその言葉がどのように使われるのかがわからない。

どことなく、本当のところを伝えられていないような、モヤっとした気持ちが少しずつ募っていくような感覚── やりたかった日本語教師の道に進んだのに、「これでいいのか?」っていう小さな違和感があって。

今思えばあのモヤっとしたものが、その後につながっていったのですが……。

働きながらの大学院進学で得た「介護日本語」の知識

▲インドネシアから帰国後に購入したもの。教壇に立つ際、見やすく自立する点を重視して選びました

▲インドネシアから帰国後に購入したもの。教壇に立つ際、見やすく自立する点を重視して選びました

濃厚で刺激的なインドネシアでの月日は、あっという間に過ぎました。

日本に帰国後は、日本語学校で週に2~3日留学生たちに日本語の授業をするかたわら、ヒューマンアカデミーで営業職もするという、Wワークの日々を送ります。

インドネシア赴任中にあった、モヤっとした想いを感じる瞬間──。それは日本で教えているときにも不意にやってきました。

留学生が本当に知りたいのって、たとえば「アルバイト先のラーメン屋で使われている言葉」だったりするわけです。

あるとき学生に、「先生コレなんですか?」とスマホの写真を見せられました。それはラーメン屋でよく見る、ゆであがったラーメンを湯切りするザルのようなもの。

「なんて言うんだろうこれ……」

ふと、気持ちがざわつきます。私は、その名称を知らない。

もっと言うと、「相手の住む本当の世界」みたいなものがわからない。

そんなことが続き、授業という決められた時間内に教える今の私は、学習者にとってどのくらいの存在価値があるんだろう──。そう思い悩むようになりました。

同時に、この先のステップアップについても考え始めます。

仕事は楽しい。でも非正規社員のまま、営業と日本語教師それぞれの仕事を続けても、持てる責任の大きさがこれ以上になることはあるんだろうか……。営業の仕事を追求する?また海外で日本語を教える? どっちも違う気がする……。

なかなか自分にハマるところが見つからないまま、ふと参加した「介護日本語の教え方講座」で、私のその後を変える先生との出会いがありました。

「先生の話をもっと聞きたい!」

何かに突き動かされるような勢いで、介護日本語で著名なその先生に連絡をとってみたんです。そして直接お会いして、思いつくままにたくさん話をしたとき……私の中で覚悟が決まりました。

ずっと心にあったモヤモヤを打破するには、今、このタイミングしかないんじゃないか。もちろん、ものすごく悩んだものの、最終的には自分の嗅覚を信じることにしたんです。

27歳から3年間、ずっと姿の見えないモヤモヤを抱えていた私が決断したのは、「大学院進学」でした──。

自分の基礎である「営業」。異なる3つのキャリアが集結された、新たな道へ

▲日本語教師、営業、介護──。これまでの経験すべてをうまくつなげられている気がする

▲日本語教師、営業、介護──。これまでの経験すべてをうまくつなげられている気がする

大学院での研究テーマは、「他領域に接する日本語教育の在り方を考える──介護福祉施設での日本語教育実践から」。

研究リサーチのために介護施設で実習をさせてもらうこともあったので、勉強と仕事の両立はかなりハードでした。

それでも持ち前の新しいことに挑戦する体力とか、楽しいみたいな感情が勝っていましたね。

学費は奨学金で賄って、まだ返済中の身。正直、キツいときもありますよ(笑)。でも後悔はまったくない。お金は働けばなんとかなるけど、時間はその瞬間しかないですから。

2020年8月現在は、ヒューマンアカデミー日本語学校で、介護施設に対する日本語研修の提案営業を担当しています。現場の声を生かしながら、新商品の開発を社内に提案することもあります。学ぶ人、受け入れる施設、それぞれのニーズを満たすためのものを提案できて、めちゃくちゃ手ごたえがありますね。

日本語教育、営業、介護。これまでの3つのキャリアが全部つながった瞬間が、まさに“今”なんだなぁと思います。

営業をしているとき、「相手の発した言葉には、こんな想いがありそうだな、何かしらの経験から来ているんじゃないかな」と、ピンとくる瞬間があるんです。

日本語教師は、それとちょっと似ている部分があるんじゃないかな。

言葉を教えるのも営業も、「この人にはこういう言葉の方が伝わる」というのが人によって違っているので、それを試行錯誤しながら相手とコミュニケーションをとっていく。

その過程とか深度っていうのが、私にとって何より大切なことなんですよね。

これは自分の中に脈々と流れてきた信念で、その軸をもとに自分の嗅覚を信じて従ってきた結果が今なのかなって思うんです。

私が営業職をしながら日本語教師として働けたのは、間違いなく職場のみんなの応援があったから。そうした風土がなければ、私のこの特異なキャリアは形成できなかっただろうなって、あらためて感謝しているんです。

夫に対してもそう。仕事が好きな私を理解してくれて、今では保育園のお迎えや家事も、以前より手伝ってくれるようになって。

だからこそ、キャリアの集大成である今の仕事を突き詰めたい。

でも一方で、数年後にはまったく違う分野の仕事にチャレンジしている可能性も、あるかもしれないなって思う自分もいたり(笑)。

もちろん、ものすごく悩むし突き詰めて考えもするけど、でも結局はどうなるかなんてわからない。だったら、自分の気持ちに素直に行動していたら、何かしら「いい波」が来るんじゃないかなって思ってるんです。

私、自分の嗅覚には絶対的な自信があるので!

ヒューマンホールディングス株式会社

この会社にアクションする

アーカイブ