いつかは欲しい「憧れの製品」はなぜ消えたのか 「物では見栄や虚栄を満たせなくなった」「所詮ただの工業製品と思うと幻滅」
先日、はてな匿名ダイアリーに「憧れの製品は今あるのか」というエントリを発見した。この日記を書いた人物は、このところ「いつか手に入れたい」と思える製品がなくなったと書き込んでいる。
投稿者曰く、その原因は雑誌の衰退ではないかという。確かに、かつて紙媒体が今よりもう少しだけ賑わっていた頃は、雑誌がカタログの役目を担っていた。彼はおそらく、その時代のことをおぼえているのだろう。
また、SNSで有名人の生活を垣間見ることが出来るようになり、「有名人も一般人も同様の土台に立っている」と知ったことも、憧れの品がなくなった原因だと分析している。どんなに魅力的な製品があろうと、それを買う人物に昔ほどのステータスの差を感じない、ということだろう。たしかにSNSを見れば有名人だろうと一般人だろうと、生活スタイルにそこまで大きな差が無い場合も多い。
「物質的豊かさの時代は意外に短かったってこと。体験に金払う時代」
日記に対する反応にも目を通してみたが、否定的な意見は案外少ない。
「たしかに、あの人が持ってるから欲しいってのは無くなった気がするね。 ちょっとお高いけど欲しい品ならいくらでもあるけど、人生を通しての目標ってレベルのものは無いか」
「所詮ただの工業製品、量産品って思うといろいろ幻滅してる。そのレベルに達すると、次に骨董品とかアートに興味が出てくる。その先にまた幻滅レイヤーがあるらしい」
「物質的豊かさの時代は意外に短かったってことだねー。体験に金払う時代らしいっすよ」
「高所得者の生活がどんなもんかインターネットを通して入ってくるもんだから、俺がどんなに背伸びをしたって上には上がいるってことをダイレクトに実感させられちゃう」
「モノでは見栄や虚栄を満たせなくなった、と言えそう。そうなった要因の一つはやはりSNSだと思う」
実際、金持ちの日々をSNSで垣間見ても、羨ましいと思うことってそんなになくて「ああ、こういうかんじね」で済むことが多い。金持ちには金持ちのめんどくささも見て取れるし、100万ばらまいてフォロワーを集めるみたいな俗臭さがぷんぷんしてると「高嶺の花って、そういうことじゃないんだよな」と失笑もしてしまう。憧れの製品があっても、それを手にしている人のライフスタイルに憧れるといったことって、そうそうない。
「あの人みたいになりたい」という理想像に立てる存在が金持ちにも少ないのだから、それらに近づくための活力にもなりうる〝購買意欲”もさほど沸かないということなのかもしれない。
ところで僕は物欲がさほど強くない。車も服も、全く興味がない。時計も女も必要最低限あればそれでよろしいと考える質で、年々この傾向は顕著になっている。でも、これでいいように思える。
人間には、多くても腕はだいたい2本ぐらい。手で掴むことのできる数は限られている。どうせあれもこれもは手にできない。それよりかは、今持っている物の価値を再確認したり、高めるために工夫したり。そういうのでいいんじゃないかなあ。