「自由な働き方がいい」と社員が言っても鵜呑みにしてはいけない 優しく縛ってあげる方が自律化への近道になる
エーリッヒ・フロムの古典的名著に「自由からの逃走」(邦訳は東京創元社刊)があります。学生時代にそのタイトルを見たとき、私は「からの?」と疑問に思いました。一人の尾崎豊ファンとしては(勝手な解釈ですが)、自由とは求めるもの、欲するものであり、決してそこから逃げたくなるものではないと思っていました。
しかしその本を読み、その後、社会に出て実際の組織を経験したりして、今では「自由とは怖いものだ」としみじみ感じています。なぜなら、自由にしていいよ、というのは、それを言われた人にとって、ある種のプレッシャーであり、負担であり、脅迫でもあるからです。(文:人材研究所代表・曽和利光)
裏にある「自己責任」を脅しと感じる人もいる
昔、外資系コンサルティング会社出身のある先輩が、こう言っていました。
「ビュッフェは苦手。日々仕事で制約条件のない中で、いろいろ選択しなければならないのに、なぜ食事まで自由なのか。選びたくない。プロであるシェフが考えたメニューのコースを食べたいよ」
真に自由を享受できるような自律的な人、自発性を持った人は実際にはなかなかいません。自発性やそれを活かすスキルがない人に「自由にやっていいから」と言っても、ただ手や足が止まってしまうだけです。
自由にしてもいいということは、裏を返せば、「何も指示されない」「何も(向こうからは)教えてくれない」「道筋を示されない」ということです。
自由という言葉は「社会的望ましさ」が高い言葉で、自由であったほうがよいと一般的には思われています。指示されたり強制されたりすることは嫌なことであるとされ、企業は「自由な職場」を作り出そうと躍起になっています。採用の会社説明会でも、いかにわが社が自由であるかについて語ろうとしています。
しかし会社の中での自由は、たいてい、いやほとんどの場合「自己責任」という言葉が伴います。「自由にやっていいけど、わかってるだろうね。その代わり、結果はあなた自身に取ってもらうよ」と脅されているわけです。
経営者の「自由好き」を迷惑に感じる人も多い
時代が変わって、今は自由を求める人が大半になったのでしょうか。自由に耐えられる人が増えたのでしょうか。私はそんな簡単に人の性質が変わるわけはないと思います。やはり、今でも昔と同じく、自由とはそれを言い渡された人にとって脅迫ではないでしょうか。
こういうことが起こるのは、第一に経営者という人種には「自由が大好き」という変わった人が多いからです。上司にあれこれ言われるのが嫌で、自由にいろいろやりたいからこそ独立したという経営者はとても多い。そういう人は、こんなふうに考えています。
「え? みんな自由になりたいんでしょ、ふつう」
経営者は、自分が会社全体をすみずみまで見渡してマネジメントできるうちは、自分が自由にやりたいので、社員を自由にさせようとはしません。
しかし、会社が成長して自分ではすべてを見切ることができなくなると、自分の会社の社風にも自由の気風を持ち込もうと「自由と自己責任」とか言い出します。座席のフリーアドレス化や、固定的な組織を作らないプロジェクト型組織化などなど、とにかく「解き放つ」ことを目的とした制度を入れようとします。
こうして、経営者の自由好きが高じて職場の自由化が進んでも、多くの人にとってはありがた迷惑であることが多い。むしろ、自由にしろ、ではなく、もっといろいろと指示して教えてほしいと思う人の方が大半です。
熟達化には「最初は型にはめること」こそ重要
これは別に「最近の若者は指示待ち族が多くなった」などと非難しているのではありません。そうでなく、そもそも人が自由を享受できるようになるためには、いきなり自由を与えるのではなく、最初は型にはめてあげることこそ必要なのです。
心理学の研究領域の一つに「熟達化」というものがあります。人はどうやってエキスパートになっていくのかという分野です。そこでも、最初はまずは型通りにやってみることが推奨されています。そして、型通りにできたら、自分らしいやり方を徐々に模索するというのが自律化の自然な過程です。
だから、自律できる社員ばかりの会社を除けば、いくら社員たちが社会的望ましさの高さだけから「自由がいい」と言っても鵜呑みにしてはいけません。最初は嫌がられたとしても、1から10まで丁寧に行動を指示してあげて、優しく縛ってあげる方が結局は自由、自律化への近道なのではないでしょうか。
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