障がいを理由にあきらめない。外に出て声をあげ目指す、誰もが希望を叶えられる社会
ブランディング統括局の矢嶋志穂。「GPまろえもんレポート」をはじめ、さまざまな場所で車椅子ユーザー120cmの目線から、見て、聞いて、気づいた情報を発信しています。一方でパラスイマーとして活動し、大会で新記録を更新することも。陸上でも水中でもパワフルに活動する彼女の、これまでの歩みと信念を紐解きます。【talentbookで読む】
仕事も資格も失って──障がいを発症して一変した生活
こんにちは、矢嶋志穂です。普段、“まろえもん” や “まろさん” と呼ばれています。
私はゼネラルパートナーズ(以下、GP)ブランディング統括局に所属し、日々障がい者雇用やパラスポーツなどの現場に赴いて、当事者である自分が実際に見て・触れて・感じた情報を発信しています。2019年6月から、PR Tableでも「GPまろえもんレポート」を掲載し始めました。
このレポートでもお伝えしている通り、私はGP創立以来初めての車椅子ユーザーとして入社しました。感音性難聴のため人工内耳を装用し、てんかん、膀胱機能障がい、そのほか複数の障がいがあります。
そんな私ですが、子どものころは障がいはなく、興味のあることに熱中する学生時代を過ごしました。7歳からスイミングスクールの選手コースで毎日泳ぎ、高校ではバンド活動に熱中。卒業後は通っていたスイミングスクールにそのまま就職し、ベビースイミングから障がい児・選手コースなど幅広いクラスの指導を担当していました。
やりがいのある仕事を楽しむ日々。しかし働き始めて1年も経たない19歳のころ、その生活が一変します。
思えば体調の異変はずっと前から起こっていました。忙しい毎日の中で、病院に行かずやり過ごしていたのですが、ある日大会引率の帰りに倒れてしまい救急搬送されICUへ。診断名は「てんかん」でした。
10カ月の入院生活を送った後、退院し職場にも復帰しましたが、薬を飲む毎日に慣れず入退院を繰り返します。「出産に対するリスクが高い」と当時の主治医に言われたのもショックで、将来に対する不安も大きく膨らんでいきました。
さらに数年後、病気の後遺症で感音性難聴を発症。後に待っていたのは “仕事も資格も失う” という現実でした。
皆さんは「障がい者に関わる欠格条項」という言葉を知っていますか? 障がいを理由に資格・免許を与えることや、特定の業務への従事、公共的なサービスの利用などを制限・禁止する法令の規定をこのように呼びます。この当時(平成11年)の欠格条項により、取得していた医療系の資格を返還する形になりました。
私は身体障がい者手帳を取得し、障がい者雇用としての就職先を探すことになりました。生まれて初めての就職活動、なかなか面接までもたどり着けず、やっとの想いで就職したのはとある特例子会社でした。そこでは障がい者が多く働いており、私と同じ聴覚障がいの方も職場にいましたが、みんな手話を使って話す人たち。後天的に聴覚障がいを発症した私は、その当時はまったく手話ができませんでした。それから必死に手話と仕事を覚える日々が始まります。
周りは自分と同じ障がいがある人たちだけ。手話を覚えてからはその環境に、一種の楽さを感じていたこともありました。それでもPCを使わない簡単な作業と、手話しか使わない閉鎖された空間に、次第に焦りを覚えていきます。
「周りはPCを使ってどんどん仕事をしているのに、私は大丈夫なんだろうか。ここから飛び出さないと、社会に取り残される!」
そう感じた私は2年半勤めた会社をやめ、違う会社に転職することを決めます。
外に出て働き、泳いで出会った新しい世界
転職活動を始めたものの、なかなか転職先は決まりませんでした。そのときの私の身体障がい者手帳の等級は聴覚障がい3級です。補聴器を装用してはいますが「音」の感覚は鈍り、手話・口話のコミュニケーションに心地よさを感じていました。
しかし、電話もとれない。致命的にPCスキルもありません。
当時の日本では聴覚障がいのある人を採用するノウハウがほとんど知られていない中、採用してくれたのはとある電機会社でした。配属部署の社員は若い方が多く、“聞こえる” 人。私が喋るとみんながビックリした表情で一斉に振り向きます。そんな状況に、「自分の存在は迷惑なのではないか」と思うようになり、就職後少し経ってから会社に行かなくなってしまいました。
そんなある日、教育係の方が連絡をくれました。「まずは、また会社に来てみない?」
その言葉を聞いて、最初は「会社に戻ったら退職をすすめられるんじゃないか」と不安に思ったんです。会社に戻るかどうか散々悩みましたが、私は再び会社に通勤を始めました。簡単なPC事務から始めて、次にデータの読み取りなど、職場の方はちょっとずつ難易度をあげながら、私のペースにあわせて仕事を切り出しつくってくれました。
また私が毎日出社することによって、みんなも慣れてくるように。一緒にお昼を食べたり、会社の外でもレクリエーションを楽しむようになりました。
結局この会社には長く勤めて、現在まで連絡を定期的にとる友人もできました。 友人がご主人の転勤で海外に赴任になれば、現地まで遊びに行くほどの仲です。 入社直後を振り返ると、まさかこうなるとは思わなかったですよね。教育係の人が声を掛けてくれたあのとき、本当に会社に戻って良かったです。
自分が外に出ることで、周りも自分も少しずつ変わっていく。一度は引きこもりかけた私が社会に出て、さまざまな人と関わりながら活動できるようになった、大きな経験でした。その後人工内耳を装用して、音・発音のリハビリを行い、転職してさまざまな仕事を経験しますが、社会人としての基礎はここでつくられたと感じています。
そして私と社会の関わりを語るうえで切っても切り離せないのは、競泳活動です。
障がいを発症して一度は離れた競泳の世界。戻ったきっかけは、区の福祉課の方の勧めもあり一緒に障害者スポーツセンターに行ったことでした。そこで私は、腕のない人や車椅子ユーザーの方が泳いでいる姿を見たのです。
「すごい! あの人たちどうしてあんなに泳げるの! ちょっとこわそうだけどかっこいいなあ」
これが初めて障がい者の泳ぐ姿を見た、私の感想でした。そうして私も競泳活動を再開するのですが、最初はなかなか身が入らず……練習を時々さぼっては、チームメンバーに叱られることも少なくありませんでした。そんな私を変えたのは、大阪・なみはやドームでのジャパンパラ水泳競技大会の観戦です。大会後に行くUSJ目当てで観戦に行ったのですが(笑)、大会会場では私の知らない世界が待っていました。
「なんでこの人たちはこんなに速く泳げるんだろう?」
全国から集まるさまざまな障害をもつアスリートが活躍している姿に、こんな世界があるんだと驚きました。それからUSJでの体験も初めてのことばかりで。見えない・聞こえない、多様な人がいて、でもそれがすごく楽しかった。「自分ももっと速く泳げるようになりたい! 来年はジャパンパラに出場したい!」という意識が芽生え、その後は練習にもしっかり参加し、結果もついてくるようになりました。
パラスポーツの環境を整え、多くの障がい者がスポーツを楽しめるように
さまざまな障がいのある人が参加するパラスポーツの世界では、コーチやサポーターが必要に応じて補助を行います。ある日の大会で、できないことをきちんと伝えなかった私は、サポーターにこんなことを言われました。
──私たちはあなたが一番のパフォーマンスを発揮できるように一緒に戦っている。だからできないことはちゃんと言ってほしい。言ってくれないとわからない。
何かをお願いすることを遠慮していた私の心に、その言葉がずっしりと刺さりました。自分ができないことは他の人にしっかり伝えサポートしてもらい、自分はできることを一生懸命やる。それからはそう思うようになったのです。
このように支えてくれる人が欠かせない存在である一方で、実はパラスポーツに関わる人たちのほとんどは、ボランティアとして務めています。クラス分けや特殊なルールや研修、学ぶことも多く、また遠征の際に交通費も満足に払えない。やりがいはあるが金銭的・体力的な負担を理由に、やめてしまう人も少なくありません。海外においては、コーチ・サポーターは立派な仕事として成り立っている場合が多いです。私は長年ほとんど変化のないシステムが大きな問題だと感じています。
もうひとつの問題として、トレーニングしたくてもする場所がないことが挙げられます。「危ないから」 「設備がないから」という理由で、スポーツクラブの入会を断られてしまうことも少なくありません。「障がい者のスポーツ施設もあるでしょ」と言う人もいるかもしれませんが、まだまだそのような施設の数は限られています。距離の遠さや送迎バスの本数の少なさに、通うことを断念する障がい者も多いです。
2000年のシドニーパラリンピックでは、私の当時所属していたチームのキャプテンや仲間がメダルを獲得。自分にとっては競技にさらに打ち込む転機になった、印象深い大会ですが、日本では新聞に少し載っただけでほとんど報道されませんでした。今はパラスポーツについてメディアが取り上げることも増えてきましたが、一体どれくらいの人が実際にパラスポーツを観戦したり、関わったりしたことがあるでしょうか。
パラスポーツや日常的に行われる障がい者のスポーツ活動について多くの人に知ってもらえるよう、私は日々現場に赴き発信し、知るきっかけをつくっています。パラスポーツを取り巻く環境は、もっともっと良くできる。
パラアスリートだけがスポーツをするわけではないのです。全ての障がい者がスポーツを楽しめるきっかけを生み出したい、という想いが今の私の原動力のひとつです。
存在を知られず社会から消えていく人たち。2020年のその先に変化を求めて
私のFacebookのタイムラインには、こんな投稿が流れてくることがあります。
「明日の夜、僕の寝返りを誰かお願いできませんか。そうしないと寝ることができません」
寝返りをうつ、たったそれだけのことなのに苦労する人たちがいる。悩ましい気持ちでいっぱいになります。パラスポーツについて多くの人に知ってもらうだけではまだまだ解決できない問題が、こんなに身近にあるんだと痛感して、最近は重度障がい者の生活が楽しくなり、就労にもどうしたら結びつくかを模索しています。
インターネット経由で遠隔操作する分身ロボット「OriHime」も、実際にオフィスで使い始めました。問題解決につながるテクノロジーも積極的に活用して、事例として多くの方に広めていきたいです。
2020年の東京パラリンピックでは、沢山の障がい者が日本に集まります。公共交通機関や競技施設では、開催に向けてバリアフリーの整備が進められています。それでも、たとえば体格の大きい電動車椅子ユーザーや、集団で移動する車椅子ユーザーを目にしたときに、初めて「こんな障がい者がいるんだ」と気づくこともあるんじゃないかと思うのです。私はそのような気づきによる、2020年 “以降” の変化に注目したい。
まだ世の中に出ていない障がい者の存在、伝わらない声。法律が変われば就労できる重度障がい者。満員電車で移動する車椅子ユーザー、もっと高みを目指したいパラアスリート、身体を動かして遊びたい特別支援学校に通う子どもも、今ここに存在しています。でもその存在が見て見ぬふりをされることで、やりたいことができなかったり、差別偏見を受けたりしてしまうのではないでしょうか。
そう考えると、私自身が毎日通勤したり情報発信をしたりすることが、すべてアクションだと思っています。世の中にはいろんな人がいるので、障がい者が目立つ姿を好ましく思わない人もいるでしょう。でも発信しないと存在すら知られない人たちがいる。どんな言葉をぶつけられても、発信をやめず日々活動しています。
最近、とあるライブハウスに行く予定で問い合わせたら、用意できる席が後方しかないと言われました。私の目線は120cmです。150cmや170cmの人の後ろになれば、その人たちの背中しか見えません。サイトラインの確保・必要性を説明しましたが、「決まり」なのでと言われ、断念するしかありませんでした。
一方で、私が他に行った公演で大型ストレッチャーとヘルパーふたりを案内してくれたライブハウスもあるんです。当日、スペースの狭さに客席を急遽ずらしてスペースを拡張するなど、とても柔軟な対応をしてくれました。
理不尽な想いもあきらめた経験も沢山ありますが、今は障がいを理解、共有し実現を志すたくさんの伴走者がいます。
私の行動からそのような人がもっと増えていってほしい。そう願い、今日も私は当事者目線から発信を続けていきます。