アクセルを踏み続けるだけが成功の鍵ではない。──経営理念に込められた想い
名古屋にオフィスを構える「RE/MAX Home Agents」。オーナーの小池 淳一は「思い立ったらすぐ行動」を信念に走り続けてきた。これが功を奏すこともあれば、裏目に出たこも。さまざまな経験を経た上で、新たに取り組みを決めた「RE/MAX」事業には、どんな想いを持っての参画なのだろうか。【talentbookで読む】
アメリカでの生活は私の人生の条件に。そこから広がった世界と新たな挑戦
実家の家業が名古屋で建築板金をしていて、子どもながらに自分がこの事業を世界規模にしたいと思っていたんです。なので、学生のころは英語の勉学に励み、就職するなら海外と取引のある会社にしようと決めていました。
卒業後、陶器瓦製造会社へ。半年間の研修後、アメリカの現地法人に派遣されるという条件のもと、入社しました。研修を無事終え、22歳から24歳までの2年間をアメリカで生活。カルフォルニア州で日本の陶器瓦を全米の設計事務所に紹介し、施工を指導する仕事をしました。
振り返ってみるとこのアメリカ生活が忘れられず、それからの私の人生の決断に欠かせない条件のひとつになっていましたね。
帰国後は家業の建築板金職人として2年間修業したのですが、肌に合わず断念。職人よりももっと外に出て営業をしたかったんです。話し合いの結果、家業は継がず、長男にもかかわらず独立することに……。このとき、やるからには父に負けない会社をつくろうと思っていました。
まずは学生時代に看板屋でアルバイトをした経験を生かし、工事現場の建築看板をメインに請け負う「コイケデザインスタジオ」をスタートさせました。今でいうフリーランスです(笑)。その当時では珍しかったかな。
その後、グラフィックデザインに詳しい中学時代の友人も参戦し、ふたりで活動していきました。そのころはマンションの建設ラッシュで、マンションの1階に店舗が置かれることも多く看板の請け負いは鰻登り、さらには店舗設計まで任されるようになり、3年後には法人化するまでに。
さらに、店舗のオーナーからご自宅の建築の依頼が入るようになり、そこから、建築と設計の業務も始めました。
本格化させるため、すぐに建築士の資格を取得し、設計と建築事業部を別法人で設立。1988年、「パパママハウス」がスタートしました。
デザイン、設計建築、派遣事業──3足の草鞋の活躍とその裏で経験した苦難
競合の多い建築業界に挑むためには、何か新しいことが必要だと考え思案の末、機能、性能に優れている輸入住宅を建てる工務店に特化させました。
しかも再渡米を狙っていた私にとっては一石二鳥(笑)。建材の仕入れのために毎月アメリカに行く生活は楽しかったですね。
当時はインターネットもなく、仕入れは現地に赴きイエローページで業者を探すところから。窓やドア、ジェットバスやトイレなど、すべて自分の目で見て決めました。自分が良いと思うものを売るのでお客様にもそれが伝わり購入希望は後を絶たず、また、輸入住宅という物珍しさもあって、売上は早期に3億円を超えました。
そんなとき、また新たな話が。リフォーム工事をさせていただいた取引先のアメリカ人から、英会話教室のM&Aの話があったんです。帰国するので、事業を継承してほしいとのこと。
30年前は子ども英会話に特化した英会話教室が少なかったことや、また渡米のチャンスができることを考え、翌日に1000万円で52%の株を買収しました。
その後、バブル崩壊と同時に生徒が激減しましたが、学校で国際理解教育が始まったところだったので、ALT(アシスタント・イングリッシュ・ティーチャー)を教育委員会に派遣する計画を立てたんです。
先生を確保するリクルート活動のため、もちろん渡米(笑)。ALTはそのほとんどが文部科学省から派遣されており、それを民間で行っている会社は当時皆無でした。こちらも時代の波に上手く乗ることができたと思います。
3年後にはこの外国人講師派遣事業を別会社にし、売上げも3億に。この時点で、グラフィックデザイン、設計・建築、外国人講師派遣事業と3足の草鞋を履きTVCMまでするほど事業の規模は大きくなっていました。
しかし、これまですぐ行動に移すことで功を奏してきたことも、空回りしていきます。
「パパママハウス」の輸入住宅建築の請け負いは勢いに乗るあまり、需要に供給が追い付かず、また入出金のタイムラグも管理しきれず、大きな借金を抱えることになりました。きちんとした経営計画もつくらず勢いで突き進んでしまった結果、会社を手放さなければならないという大きな失敗となったのです。
また、毎日2時間、寝に帰るだけの生活もたたり、40歳で一過性脳梗塞になり入院……。働き方を改めて考えなければと思いました。
多くの人に「感動の始まり」を提供したい。相続と不動産のつながりへの期待
仕事ばかりの生活は良くないと実感し、経営塾で経営学をイチから学びました。そこから会社の経営理念をつくり、長期経営計画を策定し、会社の事業目的を常に念頭に経営するように努めたんです。これこそがトップの最重要、最優先の仕事であるとようやく自覚できましたね。
経営理念は『感動のはじまり』。
というのは、以前、英会話の体験教室で幼稚園のお子さんが、そのお母さんに向かって言っていたんです。「僕、マイケルと英語でお話しできたの!」とキラキラした瞳でとても嬉しそうに。
私はそのとき「この子のこれから先起こりうる感動の始まりを提供できたんだ」と感じ、私自身も感動してしまいました。そこからひとりでも多くの方に『感動のはじまり』を提供したいと、この想いを大事にしながら仕事をしてきたので、それを経営理念にしたんです。
それから私個人で大事にしていることもあります。経営塾の先生からいただいた言葉で『忍待』。我慢する「忍耐」ではありません。忍んで「待つ」ことです。
アクセルを踏み続けてきた私にとって、この言葉、とても刺さりましたね。
それからの人材育成時には目は離さないけれども、口は出さないようにしました。手取り足取り教えるよりも、待つことで人はより成長します。私が待つ間に、何が足りないか、何ができないかを自分で発見できるんですよね。そうなって初めてサポートします。そうすると、そのとき得た情報や知識の定着率は格段に違うんです。
事業計画や経営理念のもと、会社も落ち着き、また新たな取り組みを開始しました。以前建築でご縁のあったお客様から、年月を経て相続の話でご相談をいただくようになったんです。その件数が多くなり、これはきちんとした窓口が必要だと考え2012年、「iCAN 全国相続鑑定協会」を創設しました。
運営を始めると、ご相談の先に不動産の取引も多く発生し、相続と不動産の切っても切れない強いつながりを感じましたね。
RE/MAXに参画しようと思ったのは、不動産との関係性が深いこの「iCAN」とRE/MAXエージェントとのコラボレーションの未来予想図が見えたから。
また、自分のスタイルで営業活動するエージェントを中心としたビジネスモデルは今後確実に需要が高まるだろうと感じ、すぐに加盟を決めました。
RE/MAX本部がアメリカということもあり、もちろん再渡米も狙っています(笑)。
「感動のはじまり」に立ち合い、これからも走り続けていく
iCANでは相続鑑定士と相続エージェントが協働して、相続の相談を入口に、相続不動産の診断、活用の提案をしています。相続および不動産コンサルティングのプロの目で診断をして、「負動産」を「富動産」に変えるように相続鑑定書を作成しています。
RE/MAXエージェントもiCANで研修を受け、相続鑑定士とタッグを組み相続エージェントとして不動産、相続の相談者を川上でグリップすることで出口戦略として不動産仲介に結びつける、というコラボレーションが可能です。
RE/MAXのエージェントはご自身が看板となるので、知識をより増やし、お仕事の幅を広げて充実したエージェントライフを送ってほしいですね。逆に、相続鑑定士さんがRE/MAXのエージェントになることで、本業以外の副業としての不動産仲介ができるようになります。不動産業務のサポートはRE/MAX Home Agentがしっかり行いますよ。
「相続を制するものは不動産を制す」と思っています。この表裏一体の関係性を存分に生かしてもらいたいです。ご相談者様もワンストップで相続と不動産の相談ができたら安心ですしね。
RE/MAX Home Agentsでの私の役目は、エージェントの採用と教育、そしてMy Homeのように安心できる場所の提供です。不動産仲介での利益ももちろん大事ですが、今はエージェントへの知識と経験の教示を通して、エ―ジェントが成長していくことに大変喜びを感じています。
RE/MAXに参画したことで相続、不動産の相談を通して新たな「感動のはじまり」を創造することができました。たとえば、ご相談者様の不安を取り除くことで生まれる「感動のはじまり」、相続エージェント、不動産エージェントがおのおの新たな分野で活躍する「感動のはじまり」、新たな喜びをみつけた私自身の「感動のはじまり」。
この「感動のはじまり」の輪をRE/MAXを通して日本全国に広げていきたいと思っています。そのためには、やはりこれからも走り続けるのかな(笑)。