くぐった修羅場の数が心のキャパとなり蘇る──部門最大の利益貢献を成し遂げた軌跡 | キャリコネニュース
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くぐった修羅場の数が心のキャパとなり蘇る──部門最大の利益貢献を成し遂げた軌跡

▲野球部時代の紀之定。肘の故障を乗り越え、スラッガーとして活躍した

▲野球部時代の紀之定。肘の故障を乗り越え、スラッガーとして活躍した

子ども服部門の生え抜きとして最前線で活躍する紀之定 翔は、「部門最大の利益貢献」の実績を持ち、「誰もしたことのない商売としくみづくり」で勝ち続ける中堅社員である。日々の業務の中で好成績を出し続け、多忙な中で新規ビジネスにも携わるそのバイタリティの源は、学生時代の挫折と、若手でくぐった修羅場の数であった。【talentbookで読む】

どんな環境下でもやり抜く力──野球での挫折を乗り越えたその先にある芯

紀之定は学生時代を野球に捧げてきた。とくに中学時代は、大阪で一番強いといわれるボーイズリーグに所属していた。

紀之定 「一番のチームに入ろうと思ったのは、『環境が人生を左右』すると考えていたからです。誰かに言われたわけではないのですが、そこなら絶対頑張れるのを、本能的にわかっていた。実際うまいメンバーばかりで、次元の違う環境でのプレーに日々、競争心が途切れませんでした」

当時、その猛者たちの中でもピッチャーとしてエース背番号を背負っていた紀之定。しかし、練習中に肘を壊してしまい、1年半はボールを投げられないと医者に宣告される。

紀之定 「正直かなりつらかったです。それでも、肘が治るまでの1年半、一度も休まず練習に出続けました。『調子いいときは誰だってうまくいく。うまくいかない状況で初めて人間力が発揮される。右がだめなら左で投げればいい!』こんな感じで超ポジティブでした」

このときの経験が『どんな環境下でもやり抜く』という下地をつくり上げた。

高校では野球部で活躍しつつ、評定平均4.9を維持して第一希望の大学へ指定校推薦で進学した紀之定。

そんな紀之定が豊島と出会ったのは大学3年生の就活シーズン。野球時代の経験から、どんな厳しい環境でもやり抜く自信があったと言う。第一志望群は、抜群に厳しいと噂されていた商社業界。

そんな中、ある商社の決算書をみて「これだけ潤沢な資金があったら、自分の力でビジネスをやらせてもらえるフィールドが抜群に大きいはず!」と目の色が変わった。

それが豊島だった。

紀之定 「企業が儲かってないと任される範囲は必然的に小さくなりますが、豊島にその心配はない。さらに厳しさも兼ね備えているとあって、第一志望になりました」

だが、豊島での最終面接中に、当時面接官だったある役員と口論になってしまう。

紀之定 「些細なことでしたが、『自分の信念曲げてまで面接で屈するのは違う』という想いがありました。今思えば相当ガンコなやつでしたね」

変に飾っても入ってからしんどいだけ、と前向きな気持ちで帰路についた紀之定。ところが、その帰り道に鳴った電話は、豊島からの「内定通知」だった。

紀之定 「正直、『なんで?』と思いました。けど、こんなにも正直に向き合えた会社は他にないし、入社後も飾らずいられる!と入社を即決しました」

「海外工場での孤軍奮闘」その側にあったのは、意外なほどのワクワク心

▲若手のころ。キッズ・ベビー服に日々囲まれながら仕事をしている

▲若手のころ。キッズ・ベビー服に日々囲まれながら仕事をしている

紀之定は人事との配属面談の際、「豊島で一番厳しい部署に配属してください!」と伝えた。

厳しい環境こそが成長を促進すると、野球部時代の経験からわかっていたからである。

そしてその願いはかなえられ、当時「軍隊」とまで揶揄されていた、子ども服を扱うキッズ部門へと配属された。

紀之定 「入社後のギャップはなかったです。前評判通り仕事は忙しく、子ども服は確認事項が多く細かいし、上司は厳しいし(笑)。でも野球部での地獄のような練習の日々に比べたら平気でした。ただ、とある海外出張だけは衝撃的でしたね……」

紀之定は新入社員のころ、上司に連れられて中国の無錫へ出張することになった。

若手からすると、現場の生きた情報が手に入る大チャンスである。

念願の工場視察を終え、ホテルへ移動するときのことだった。上司が紀之定に声をかけた。

上司 「悪いが、今オーダーしている商品が縫い上がるまで、工場に張りついてくれ」

紀之定は驚いた。てっきり翌日も他の工場視察に同行するものと思っていたからだ。この業界では、工場張り付きで納期をプッシュするという事例はあるが、まさか新入社員がやるとは、紀之定は考えてもみなかった。

そして本当に、上司は紀之定を工場に残して日本へ帰国してしまう。

中国語は話せないし縫製のこともド素人。なにより「縫い上がるまで」がどれくらいかかるのか見当もつかない、暗中模索の生活が始まった。

紀之定 「そもそも日常生活を送ること大変でした。言葉が通じないから、トイレの場所を聞くのに便座の絵を紙に書いて見せたり、工場での昼食が毎日“虫の佃煮”と白米だったり。ばれない程度に白米を多めに食べていました。合間で関係ない海外ブランドの縫製を手伝いながら、毎晩FAXで上司に状況をレポートし続けました」

普通なら1日で逃げ出したくなるような孤独で過酷な生活。だが、紀之定は実に10日もの間、異国での生活に耐え抜いた。

紀之定 「でも途中からこんなきつい体験を“若いうちに”経験できることにワクワクしました。課の誰も経験したことない環境下での生活でしたからね」

事実、この体験以降、プライベートでどんなことが起こっても動じなくなったと言う。

商品が無事に仕上がり、10日後に日本に戻った紀之定。上司からは根性を高く評価され、飛躍的に成長を遂げていった。

そんな中、キッズ部隊に激震が走る。

エース社員の退社が知らされたのだ。

「エースの退社」と「部門最大の利益貢献」転機となったふたつのできごと

▲キッズ部門の集合写真(前列右から3人目)。中でもチーム紀之定は一番の稼ぎ頭でもある

▲キッズ部門の集合写真(前列右から3人目)。中でもチーム紀之定は一番の稼ぎ頭でもある

紀之定 「ひとりで年間10億以上売り上げる課のエースの退社が決まって、課の存続自体が問われる状況に陥りました。ただ、当時の部長含め、全員一気にギアが上がった感覚があったんです」

事実、エース社員の退社後、課の売り上げは減るどころか増えていった。紀之定含めた営業社員誰もが「この状況で結果出せば、一気に名を上げるチャンス」と野心を煮えたぎらせたのである。

当時若手だった紀之定も奮闘し、お客さんからは「わからんなりに一生懸命やってるの伝わるから、オーダー増やしたるわ」と言われた。

そして、自身の成長を確信した転機が訪れる。

紀之定 「当時の担当役員から『キッズ部門の歴史上、個人で年間3億円の粗利を出した社員はいない。お前にやれるか?』と言われたんです。3億は先輩たちが誰も達成できていない高い目標値です。『まさか若手にはできないだろう』という軽いつもりだったんでしょう」

このミッションが、紀之定の「逆境こそ燃える」性格に火をつけた。そして目標達成に向け、ふたつのことに注力する。

ひとつは、「とことん頼られる存在になる」ことだ。

紀之定 「お客さんから『60億円の売り上げを3年後に100億円にしたい』という相談があった際、『ブランドをもう1個つくりましょう』と提案しました。当初お客さんからは『そんな面倒なことやれる人いないよ!』と呆れられましたね。でも、社内のデザイナーや業務委託の方に助けてもらいながら、新ブランドにまつわるコンセプト決めやサンプル依頼、量産の生産管理など、チーム紀之定であらゆることをやってのけました」

その新ブランドは大成功を収め、お客さんとは個人的な悩みも相談される間柄にまでなれたと言う。

もうひとつ注力したのは「トーク力としくみで勝つ」という点。

紀之定 「誰でも、良いサンプルを見せればそれなりにオーダーを取れますが、ローコストでどれだけ勝てるかに注力しました。準備するサンプル数は極力抑え、筋の通ったトークで『相手の頭の中で売れることを確信させる』ことにこだわり、準備コストをかけない戦略をとりました。また、原価を下げるために、物流ルートを再構築し、粗利率を5%向上させるしくみを0ベースでつくりました」

努力と戦略の結果、紀之定はキッズ部門の誰も成し得なかった「粗利3億円」という、前人未到の快挙を達成した。

若いころの苦労量が今の自分をつくり上げた──挑戦の先に見える景色とは

▲自身が推進する新規プロジェクト『INSECT COLLECTION』でモデルとしても活躍

▲自身が推進する新規プロジェクト『INSECT COLLECTION』でモデルとしても活躍

紀之定は大きな成果を出したことで、「エースとしての不動のポジション」を築き上げた。だが、その立場に驕ることはない。その後、新規のビジネスにも積極的に関わっている。

そのひとつに『INSECT COLLECTION』という昆虫をコンセプトにしたブランドの立ち上げがある。

昆虫好きで知られるある俳優さんから間接的に依頼を受け、素材の提案から縫製、EC販売に至るまでの全工程を紀之定がコンサルティングした。

紀之定 「ほぼゼロベースでスタートした企画なだけに課題が山積みで、なかなか苦労しました。 しかし、発案者である俳優さんの『子どもたちが自然や環境問題について考えるきっかけを作りたい』という言葉に深く共感し、その志を共にしたいと思い奮闘しました。昆虫がコンセプトの子ども服ブランドは、必ず人々に愛されるブランドとなります。

ただ服のことに関して相手側は経験がありません。ブランドを生かすも殺すもこちら側次第。デザインだけでなく、在庫リスクを少なくするための発注枚数のコントロールなど、コンサル的な視点を交えながら慎重に進めていきました」

ゆくゆくは豊島を、有名人がセカンドビジネスでアパレルブランドを始めたいと手を挙げたとき、ブランディングからモノづくりまですべて一貫で請け負えるようなプラットフォームにしていきたいと語る紀之定。

ほかにも、コロナ禍の最中、新規で病院用の防護服を縫える工場を開拓し、医療機器メーカー経由で病院に防護服を提供するという商流を構築中だ。

紀之定は常に新しいビジネススキームの着想と実現に奮闘している。

なぜ、日々の業務でハイパフォーマンスを発揮しておきながら、新規の案件も積極的に推進する余裕が生まれてくるのだろうか?

紀之定 「やっぱり、若いときの苦労量だと思います。工場張り付きや、2年目でクレーム金500万円を回収した件、イチからブランドを新設する流れの真ん中に立ち会えたことなど、早くから修羅場経験をたくさん積めたからこそ、今余裕が生まれていると感じます。それが新しいことを思いつくための心のキャパと、それを実行するための巻き込み力につながっている気がしますね」

ファッション業界は常に想像を超えるスピードで変化をしている。

だが、そのスピードに並走し、どんな市場環境や社会情勢下においても、最大の価値を提供し続けられる商社パーソンとして、紀之定はこれからも成長とアップデートを続けていくだろう。

豊島株式会社

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