「ネットで知識は増えたけど賢くなった気がしない」という声に思う「当たり前だろ」感 「ネットは自分の考えを肯定する情報を探して安心を得るもの」
なんでいきなりこんな話をするのかと言えば、匿名掲示板2ちゃんねるの投稿「ネットをやって知識は増えたけど」というスレッドがあったからだ。
スレ主は本文において「頭良くなった気がしない」と書き込んでいるわけだが、たしかにネットで目にした知識ってただの文字情報でしかないので、なかなか本当の意味での知識とはなりにくい。
知りたい情報を24時間いつでも、任意のタイミングで調べることができるのはネット社会の強みと言えば強み。だけど、知りたかった情報をあまりにタイムラグもなくさっさと知ってしまうことで、ともすると知った時の感動が薄まってしまっている点は否めない。
そしてなぜか、ネットで目にした情報って、どんなに重要な文言が書かれていても、書籍だとかに比べると軽視してしまいがちだ。
スレッドにはネットで仕入れた知識が身につかない理由について考察する意見がいろいろとある。いくつか紹介したい。
「ただ液晶から発せられる映像を見て超人になれたら誰も苦労しないわけで」
「ネットで得るのは知識じゃないぞ 自分の考えを肯定してくれる情報を探して安心を得るものだ」
「情報や考えの幅が広がるどころか皆が同じ情報に踊らされている」
見方は複数あるが、どの意見も「ネットで得る知識は身にならない」という前提は当たり前のものとして受け入れられているようだ。
今のネットの検索は、「知識がつまったタンスを開け閉めしているだけ」
では、どうしてネットで得る知識を吸収できないのか考えてみるのだが、これはあまりにも手軽に欲しい情報を得られるようになった反動ではないかと感じる。
ひところ昔、インターネット黎明期の頃は、ネットで情報を検索するのは時間がかかって当然といった状況だった。図書館に出向いて調べ物をするのと同じ労力を必要とするジャンルだってあった。
ところが今ではネット上の情報もだいぶ整理されて、知りたいことは即検索できるようになった。GoogleアプリのCMでは「なんか肉肉しいお店いきた~い」みたいな漠然としたキーワードでも、肉料理の店の情報を表示できるとウリにしている。
気軽に知りたいことを知れるのは便利なものだが、気軽に得られる知識が身につかないことぐらい、みんな分かっていることでもある。
僕は、インターネットで調べ物をするという行為は、現代では、ネットという誰でも使える大きなタンスに入っている情報を、好きなタイミングで掘り出すようなものでしかないと考えている。任意の情報をタンスから引っ張り出し、一瞥をくれて満足し、またタンスに押し込む。引き出した情報を身に着けようという気が、そもそも薄いのだ。
だからネットをやっても漠然とした知識が局地的に増えるだけで、本当の意味での頭の肥やしにはなっていない。答案用紙に答えだけ書いても頭が良くなることがないのと、理屈としては比較的近いのではないだろうか。