全国各地でまたまたの緊急事態宣言も秒読み段階となり、外出を控えるしかなさそうな今日この頃。自宅で過ごすため、ゲーム機が有益なのは間違いない。
品薄のPS5(プレイステーション5)を入手出来た幸運な人はもとより、Nintendo Switchやパソコン、スマホなど、ゲームで時間を潰そうとする人は多いハズ。
そんな時、ふと思い出したのが「次世代ゲーム機」が山ほど出てきた、あの時代のことだ。(文:昼間たかし)
1994年、次世代機戦争の勃発
かつてビデオゲームが、すべて「ファミコン」と呼ばれていた時期があった。任天堂がファミコン、そしてスーパーファミコンによって、圧倒的なシェアを誇っていたからだ。
そんな状況が変わったのは1994年、「次世代ゲーム機」の座をめぐる激しい競争が起きたのだ。まず1月、松下電器産業は3月に出資する米国3DO社の規格によるゲーム機「リアル」を発売すると発表。続いてソニーも次世代ゲーム機「PSX」を年末に発売すると公表した(『朝日新聞』1994年1月31日付朝刊)。さらにはセガ、NECホームエレクトロニクスは1994年内、任天堂も1995年秋までに次世代ゲーム機の発売を告知していた。
それまで1強だった任天堂は、外部のゲームメーカーに対して厳しい「ルール」を課していた。たとえば、本数制限1年間3?5本、最低生産ロット数当初1万本(後に5千本)、カートリッジの製造を任天堂に委託する、といった条件だ。
メーカーにそんな条件を飲ませられるぐらい、当時の任天堂は強かった。1986年の『ドラゴンクエスト』(エニックス)や、1987年『ファイナルファンタジー』(スクウェア)などの超人気シリーズも、任天堂ハードでしか遊べなかった。
格の違いは出荷台数からもわかる。当時の主要ゲーム機の累計出荷台数は、以下のようになっている。
ファミコン 1902万台
スーパーファミコン 1714万台
PCエンジン 584万台
メガドライブ 318万台
PCエンジンやメガドライブでもゲーム史に残るタイトルは多く登場したが、ビジネス面では任天堂には叶わなかった。次世代ゲーム機を開発する各社の目標は、任天堂の牙城を打ち破ることだった。
ライバルたちに残されたチャンスは、ごくわずかと思われていた。というのも、この時期、次世代機として開発していたのは軒並み「32ビット機」。これに対し任天堂は「64ビット機」を1995年秋に市場に投入する計画を立てていた。
つまり、95年秋までの間に、どれだけ足場を築けるかに、各社の命運がかかっていたのだ。
口火を切ったのは1994年3月に発売された「3DO REAL」である。出だしは好調、予約が4万台を突破したが、生産が追いつかず発売直後から引き渡しは1ヶ月先とつまづいた(『読売新聞』1994年3月29日付朝刊)。5万4800円という価格が災いしたのか、勢いはすぐに失速、初年度目標100万台に対して9月末で30万台という苦戦を強いられた(『FOCUS』1994年11月9日号)。ついに11月末には、1万円の値下げを余儀なくされた。
その状況を見たセガは11月、「セガサターン」を当初より5000円下げた4万4800円で発売した。続く12月、ソニーが「プレイステーション」を3万9000円で発売。いよいよ戦争が本格化したのである。
短かったセガサターンの栄光
この戦国期、最初に一歩抜け出たのは「セガ」だった。
『宝島』1995年2月22日号には、秋葉原の販売店・メッセサンオーの1994年11月22日?1995年1月20日までの売上ランキングが掲載されている。
ハード
1:セガサターン
2:ネオジオCD
3:プレイステーション
4:スーパーファミコン
5:3DO REAL
ソフト
1:バーチャファイター(セガサターン)
2:真サムライスピリッツ(ネオジオCD)
3:クロックワークナイト(セガサターン)
4:スーパードンキーコング(スーファミ)
5:ゲイルレーサー(セガサターン)
秋葉原でのデータなので、格闘ゲーマー御用達の「ネオジオCD」が上位に来ているが、1994年末時点で既に次世代機の本命はセガサターンか、プレイステーションという状況が生まれていた。理由は、この二つのゲーム機が人気タイトルの確保に成功していたことに尽きる。
セガサターンでは「バーチャファイター」。プレイステーションでは「リッジレーサー」や「鉄拳」が、多くのユーザーの購入動機だった。(なお、筆者はプレステ派だったが、その理由は「闘神伝」である)。
ユーザー獲得競争で、値下げ合戦も起きた。ライバルのプレイステーションが1995年5月に本体価格を2万9800円に値下げすると、セガも対抗。1995年6月、サターン本体と「バーチャファイターリミックス」のセットを3万4800円で販売した。さらに11月のキャッシュバックキャンペーンでは、本体価格が実質2万4800円にまで下がった。
サターンvsプレステの争いに終止符が打たれたのは、1996年2月だった。「ファイナルファンタジー」シリーズの新作「ファイナルファンタジーVII」がプレイステーションで発売されることが明らかになったのだ。この衝撃は大きく、当時はゲーム専門誌のみならず、週刊誌、そして新聞までが報じる出来事になっている。
プレイステーションの生みの親である久多良木健は『現代』1997年6月号で勝者となった理由を「ゲームにまつわる新たな状況を作り続けてきた」ことだったと語っている。
ソニーは、問屋を通す従来のやり方ではなく、直接販売店におろす流通システムを選択。さらに、ロイヤリティを安くしたり、CDROMを採用してソフトの製造価格を抑えるなどの工夫をこらし、ゲームソフトの価格を従来の約1万円から5000円台まで下げることに成功していた。
ライバルのセガサターンも人気タイトルは続出していたのだが、『サクラ大戦』『バーチャコールS』など、オタク向けのラインナップが多い格好になり、次第に引き離されていった。
そのプレステもいまや「5」。しかも、発売後1年以上経っても、まだ品薄なほどの人気なのだからとてつもない話だ。それにしても、まさか25年以上経っても、まだ「プレステが?」とか言っているとは思わなかったな……。