数が増えているのは、埋立で島が誕生しているからだ。23区内で最新の島は、江東区の「海の森」と大田区の「令和島」。もともとは中央防波堤埋立地にあった同じ島なのだが2020年、区の境界を画定した際に「別の島」という扱いになった。コンテナ埠頭などの施設のほかはなにもない、無人島である。
23区内には、数は少ないが自然島もある。もっとも有名なのは旧江戸川に浮かぶ妙見島(江戸川区東葛西3丁目)だが、多摩川にも自然島はある。
ミステリアスな相生橋の下の「島」
個人的に、もっともミステリアスだと思うのが、晴海運河・相生橋の下にある「中の島」である。現在は「中の島公園」として整備されていて、江東区側から陸続きになっているが、過去の地図では確かに島だった。
手元にある資料のうち、もっとも古い地図は『中央区沿革図集』に掲載されている1884年の「参謀本部陸軍部測量局東京五千分一図」が制作したものだ。この地図には現在の中の島公園のあたりに「泥」という表記がある。詳しくはわからないが、陸地あるいは浅瀬があったのだろうと推察される。
いずれにしても、ここが明治時代までは隅田川の河口に位置する水深の浅い地域であったことは明らかだ。1962年に出版された豊島寛彰の『隅田川とその両岸』(芳州書院)という本を読むと、戦後しばらくまで、このあたりには浅瀬の中に卒塔婆が乱立していたという。
相生橋を渡るとき、隅田川に目をやれば、水中塔婆が入り乱れて川波にゆらゆら動いている。その異様なさまは、人の命を奪った河水をうらんでいるようにも見え……(『隅田川とその両岸』より)
卒塔婆があったのは、隅田川や東京湾を浮かぶ水死体が潮に流されて、このあたりの浅瀬で見つかることが多かったからだという。タワーマンションが建ち並び、川の土手が公園として整備されている今となっては、誰も知らない歴史である。
この『隅田川とその両岸』には、中之島公園について次のような記述もあったが、島の由来にまでは言及されていなかった。
この中之島公園は小さいながら戦後お台場公園ができるまで東京唯一の水上公園であった。公園には震災後、隅田川諸橋の生みの親、太田円三氏(当時復興局土木局長)の銅像が建っていたが、終戦後神田橋わきの公園に移されてしまった。(『隅田川とその両岸』より)
中の島公園を管理する江東区では、2007年に作成した内部向けの資料に「昔はあれほうだいの無人島だった」という出典不明の記述はあるものの、もとから島だったかどうかはわからないという。
ひっそりと存在しているが、来歴の判然としない謎の島。そんなものが23区にあるとは何ともミステリアスだ。