職場のルールは「性弱説」で行こう! 一見すると「窮屈な職場」が善人を悪事から救う | キャリコネニュース
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職場のルールは「性弱説」で行こう! 一見すると「窮屈な職場」が善人を悪事から救う

私は新卒で、当時社会的に批判されていた悪名高い会社に入りました。「リクルート」という会社です。今ではもう立派な東証一部上場企業となって隔世の感がありますが、真実はどうだったかは別として、日本史の教科書に載るような大疑獄事件を起こし、社会的に大批判されていた会社でした。

しかし当時の私にはそんなことはどうでもよく、実際に行っている事業の社会的価値と、そこで働く人との共感性だけで入社を決めました。ただ、なぜこれだけ功を成し遂げた立志伝中の人物である創業社長が、こんな事件を引き起こす隙ある行動をとってしまったのかということは、ずっとずっと考えていたものです。(文:曽和利光)

人は思い通りに善行、悪行を起こすことができるのか

個の持つ悪徳ゆえに罪を犯すものなのか

個の持つ悪徳ゆえに罪を犯すものなのか

その中で、私が全く与することができなかったのは「彼は悪いやつだったから」という単純な性悪説でした。そんな悪い人に、あれだけの大勢の人間が人生を賭けてついていったはずがないでしょう。実際に内部で聞くエピソードから想像されたのは、人間味あふれ、かつ天才的な経営者としての創業社長の姿でした。

ですが、結果として(くどいようですが真実はともかく)ああいう事件になってしまった。それを一部の人は、それまでの功績をすべて否定するかのごとく「そもそもそういう人だった」「あのこともそのことも、結局は悪い魂胆があってやったこと」などと批判していたことを覚えています。

しかし、人は「悪いやつだから」という、個の持つ悪徳ゆえに罪を犯すものなのでしょうか。私には、あまりそうは思えないのです。

私が好きな「歎異抄」の一節には、こうあります。親鸞が帰依すると言ってくる弟子に「では千人殺せ、それならお前は往生できる」と言い、弟子ができないと答えたところ、こう言い返したといいます。

「人間が心に任せて善でも悪でもできるならば、千人殺せるはずだ」
「自分が良いから殺さないのではない」
「殺すまいと思っても、百人も千人も殺すことさえあるだろう」

職場に起こる悪事の数々は「善人」が引き起こしている

もちろん日常的な場面において「自分の行動に責任を持て」的言説に反対をするつもりはありません。人間の自由意思とそれに伴う責任という概念を否定すれば、現在の社会システムの根幹の一つである法による統治はできなくなり、社会は混乱してしまうことでしょう(代替するシステムも私には思い浮かびません)。

しかし「人間の自由意思の存在」や「それに伴う責任の概念の正当性」についての議論は、実はそんなに単純なものではなく、親鸞が指摘したように人が自分自身の行動を制御できるというのは、極論かもしれませんが、思い上がりではないかと私も思います。

多くの科学的研究は「人間の自由さ」よりも「人間はその行動の多くが何かに衝き動かされている受動的な存在である」ということばかりを示唆しています。人はそんなに自由ではないということです。

世界中の職場では、様々な人によって様々な悪事がなされており、連日のように事件やニュースとなっています。たいていの場合、その罪を犯した人がどれだけ「悪いやつ」であったかを掘り起こすような報道が多いものです。

実際、個人のパーソナリティ自身が大きな原因であることもあるでしょうから、無関係とは言いません。しかし上に述べてきたような観点から、私はいつも「なぜ彼/彼女はそんなことを『せざるをえなかった』のか」とつい考えてしまいます。

私の実際の経験では「なぜ、あの人が」と思えるような善人が、その主体となっていることも多々ありました。そう考えると、決して他人事とは思えませんでした。「いつ自分が罪を犯してしまうかなんて、全くわからない」と。

チェックが甘ければ、つい魔が差すのが人間の弱さ

パワハラ、セクハラ、モラハラから、粉飾決算、業務上横領、経歴詐称、職場内暴力、退職強要、過労死に到るような過重労働の強要等々、職場にも様々な悪事の類型があります。なぜ職場で、悪事を犯してしまう善人が続出するのでしょうか。

それは結局「悪事を犯せる環境があるから」ではないかと思います。現金100万円を道端に置いておいて、隠れてそれを見ていたとしましょう。そこに通りがかった人が(観察されているのも気づかず)100万円を見つけて、警察に届けることなく懐に入れたら、その場を取り押さえて罪を確定してしまう。そんな「罪のつくり方」を皆さんはどう思うでしょうか。「それはないよな」と思いませんか。

法律的な罪は法律的につぐなわねばならないとは思いますが、私は本質的には「そんな環境を作りだした人が悪い」と、どうしても思えて仕方がありません。職場における悪事も、似たような構造があるように思います。

チェックが甘ければ、つい魔が差す。ルールが緩ければ、グレーなこともやってしまう。人間とはそういう弱いものではないでしょうか。「性悪」でも「性善」でもなく「性弱」。それを前提とした組織マネジメントをしなければ、経営者や人事は自分の仲間をどんどん悪人に陥れることになるかもしれません。

職場の仲間や部下が悪事を起こしてしまったら、経営者や上司や人事は、その当人を厳しく糾弾するだけではなく、大事な仲間をそういう魔境に追い込んでしまったと自ら深く反省すべきです。さらに言えば、そういう魔が差さないように、「弱い」はずの仲間をきちんと監視し、ルールで縛ったり、仕組みでそもそも悪事ができないようにしたりするべきです

コンプライアンスの仕組みは社員を守る「セーフティネット」

コンプライアンス系のルールや仕組みは、「性善説」の人にとっては、いかにも「性悪説的な疑心の塊」に見えるかもしれません。しかし本当の趣旨はそうではなく、弱い人間を、悪事を犯してしまうことから守るものでもあると思います

つまり、一見すると窮屈な職場を作るように見える厳しいルールは、実は、それに従っておきさえすれば、弱い存在である人間が魔境に陥ることを防いでくれるセーフティネットなのではないでしょうか。

あわせてよみたい:曽和利光の「働きやすい職場とは何か」バックナンバー

 

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