『機動戦士ガンダムF91』の評価はなぜ微妙だったのか 劇場版とガンダムの食い合わせの悪さを考える
ここのコラムでは、定期的にガンダムの話をしている。こないだは『逆襲のシャア』について駄文を連ねたところであるが、今回は1991年3月に公開された『機動戦士ガンダムF91』について語っていきたい。
僕はこの作品への思い入れは割と強いほうで、子供の頃に劇場で観て以降、定期的にレンタルで視聴し直している。宇宙世紀の後期を舞台にした作品であるため、『逆襲のシャア』で連邦が配備していた量産型MSのジェガンが既に型落ちしてしまっているのが、連綿と続く作品世界に深みをあたえていると思っている。
実際この作品内では、MSは小型化・高性能化がなされはじめる黎明期。ガンダムF91もそうだが、敵方のクロスボーン・バンガードが擁するMSも、一様にこれまでの機体よりもサイズが小さく、そして強い(ここは連邦のパイロットの錬度との違いもあるが)。
が、しかしながらこの映画ってあまり話題になることはない。好きな人は好きだけど、ZやらSEEDと並べると、どうもマイナーに思えるような節はある。その理由について、僕は「劇場版だから」を挙げたい。(文:松本ミゾレ)
劇場版の尺だと初見では満足に咀嚼できないまま終わるジレンマ
映像作品としてのガンダムは、基本的には1年間のオンエアとなっている。最近はその発信形態も変わってきているし、何なら初代は打ち切りの憂き目にも遭ってきたが、ここが基本のラインとなる。何か月もかけてキャラクターやMSを多様な面から描き、視聴者の目を引くというのがガンダム人気の骨子となっている。
一方で劇場作品となると、そういうわけにも行かない。せいぜい2時間以内で発端から幕引きまでを描くことになるため、オンエア作品ほどの規模の話が描けない。
『逆襲のシャア』も少なからず、その点については同じだったと感じている。が、あれはアムロとシャアの最後の戦いという位置づけがあったのと、これまで2作に渡って登場してきた小惑星アクシズの最期という”魅せどころ”があったので、難を乗り切れていた。だから未だに話題に挙がることも多い。
しかし『F91』の場合は勝手が違う。全く新しい舞台で、新しいガンダムを、新しいニュータイプの少年が乗りこなす。ガンダムシリーズが持つバックボーンの強みが一旦清算されてしまい、ジェガンと慢心をした連邦軍ぐらいしか引き継がれていない。
だからガンダムが好きなこれまでのファンが観賞しても、まず最初は登場人物の把握を頭の中でする必要があり、その処理に追われてるうちに終わってしまう。一度観ただけではシーブックやベラ、ザビーネにカロッゾといった、ちょっと名前の傾向にクセのある面々の顔と名称が一致しないのだ。
つまり、劇場版としての本作は、最低でも2度、3度と観直さないと、素直に面白いと感じにくくなっているんじゃないかと、勝手ながら僕はそう思う。実際、本作は元々テレビシリーズとして制作が予定されていたものだ。
コスモ貴族主義と連邦政府の対立、やはり1年かけて観たかった……
特に、一度目の観賞では完全把握が出来ないであろう部分が、コスモ貴族主義というワードである。
このコスモ貴族主義とは、地球連邦が包括する人類社会の慢性的な堕落と腐敗を嘆き、高貴な者たちが率先して人々を伴う義務を持つ、という思想である。そしてこの主義を掲げて、提唱者のマイッツァーが設立したのがクロスボーン・バンガードとなる。
だけど、本作を通しで見るだけでは、なかなかその主張の本質的な部分が見えない。ましてや”強化人間としてエゴを強化した者”こと鉄仮面カロッゾがそれを主導するとなると、虐殺に次ぐ虐殺の描写が大きなアイコンとして提示をされてしまっていた。さらにはこのカロッゾの乗るMAラフレシアの何と異形なことか。
彼らの掲げる高貴な主義とは対極にあるような、この妖怪然としたラフレシアの存在は、恐らく「主張はどうあれエゴから来る虐殺は、堕落した連邦を否定もできない」という意図があったものであろう。
コスモ貴族主義はその後の宇宙世紀では、立ち返られることはなかった。しかし、テーマとしてはかなり面白いものがあるんじゃないと思える。できればこの戦い、劇場版の枠ではなく、テレビシリーズで楽しみたかった……。