自身の経験を伝えることが仕事──日本一の広告代理店で学んだデジタル人材のレベル | キャリコネニュース
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自身の経験を伝えることが仕事──日本一の広告代理店で学んだデジタル人材のレベル

▲大阪支社立ち上げ時

▲大阪支社立ち上げ時

2009年4月にD2Cに新卒で入社した椿本 晋之介(つばきもと しんのすけ)。電通への出向や、大阪支社立ち上げ経験のある彼が語るデジタル人材としてのスキルやマインドはどう培われたのか。その背景をひも解きます。【talentbookで読む】

新卒で電通に出向──量をこなした若手時代。そしてつかんだMVP

椿本 「私は、学生時代からDJをやっていました。当時、イベントのチケットを携帯で販売をしていたんですが、最大で2000名規模のイベントも行ったことがあります。その際に企業からの協賛を募ることもしていました。

その過程で、モバイル端末を通したマーケティングに興味を持ちはじめ、就職活動でD2Cを受けました。実は他の会社をほぼ受けることなく、D2Cに入ったんです」

D2Cに新卒入社したものの、すぐに電通に出向となった椿本。電通には約3年在籍していました。

椿本 「そこでは運もありましたが大手クライアントを多数担当することができ、『24時間働いてやろう!』ぐらいの気持ちでガムシャラに働いていました。当時はそんなに仕事できるタイプではなかったんです。

しかし周りは優秀な人ばかり。どうにかしないとなと思ったときに『量をこなす』しか選択肢はありませんでした。それと同時に1年で結果を出してスタートダッシュをきりたかった気持ちもありましたね」

その働きも報われて、2年目にして営業本部MVPを受賞します。

椿本 「とにかくその当時はクライアントの要望を聞いて、どうにかその要望を実現させようと奮闘していました。日々オーダーに対して必死に食らいついていましたね」

転機があったのはその直後、3年目に差しかかったころ。

大阪支社の立ち上げを任せられます。

しかし、立ち上げた大阪支社ですぐには結果が出ませんでした。

大阪支社での挫折……行動し続ける泥臭さが小さなチャンスを生む

▲大阪時代(写真右)

▲大阪時代(写真右)

今まで担当していたのは大きなクライアントばかり。大阪は規模自体も小さく、社名の認知もありませんでした。まずは、営業電話を地道にかけることから始まります。

椿本 「すぐにうまく仕事につながることはなく、赤字の期間が半年ほど続きました。それでもやるしかなかったですね。

そのときは、天狗になっていた鼻を折られた感覚でした。2年目でのMVP経験もむなしく自身を否定されたことで、仕事に対するマインドが変わるきっかけになったと思います」

1円でも手にしたい、そんな気持ちで仕事に向き合い、さまざまな場所に顔を出して少しでもチャンスを伺いました。

椿本 「数少ない受注機会をモノにしなければならないため、制作の案件やSEO、運用型広告の案件など、多くの打ち手を身に付ける必要がありました。

とにかく、クライアントには「なんでもできます!」と伝え、仕事をいただけるチャンスを増やしていきました。そうした積み重ねで少しずつ仕事を増やせるようになり、なんとか大阪支社を軌道に乗せることができましたね。

ただ、大阪での仕事は商習慣もありますが、費用対効果にめちゃくちゃ厳しい。『広告を出したら、もうかる』という認識がクライアントにある中で、どのようにアクションすれば、売上が上がるのかを日々考えながら業務と向き合っていました」

そうした状況の中で椿本が意識していたことはサービスレベルを上げることでした。

椿本 「運用型広告でも『CPAを下げた後、クライアントは何がしたいのか』を聞いてその実現のための施策の提案を行っていましたね。

また、運用型広告の案件に関わっていく中で、こんなにもわからないことが多いのかと気付いたんです。他にも提案をしましたが、運用型広告の提案がよりクライアントのためになるなと感じました」

そこで、運用型広告のスキルを自分のモノにするために、会社に電通デジタルへの出向の希望を出します。

希望がかない、電通デジタルへの出向が決まりました。

プレイヤーとマネジャー。二足の草鞋の中で身に付けた「デジタル人材」

▲電通デジタル出向時代(写真下)

▲電通デジタル出向時代(写真下)

自分自身のテクニックを磨きたいという強い想いで希望しましたが、実はプレイヤーとして働いていたのは半年ほど。すぐに、マネジャーを命じられました。

椿本 「当時はマネジャー業務に慣れてなかったこともあって、半年間はフラストレーションを抱えながら仕事をしていました。ただ、当時の上司との1on1で『プレイヤーだけでなく、マネジャー業務も学ばせてもらう姿勢でいよう』といわれ腑に落ちました」

運用型広告は新しい情報がどんどん出てきます。プレイヤーとして最新情報にキャッチアップしないとチームのマネジメントもできないということもあり、前向きに取り組むようになったのです。

椿本 「その経験もありながら、運用型広告の基礎となる点は学ぶことができたかなと。今では当たり前のようなことですが、プレイヤーとしてもマネジャーとしても、メディアの特徴や運用ノウハウを把握していることはクライアントと対峙する上で、とても重要だと感じています」

これまで担当してきた中でもっとも記憶に残っている案件は、年間予算が数十億円という大手食品メーカーの運用型広告のコンペ提案。

椿本 「運用型広告の緻密な数字勝負の世界、とにかく泥臭さとテクニックの二軸を駆使して取り組みました。結果、なんとか勝ち取ることができ、とても達成感を味わった瞬間になりましたね。

それらを通じて『自分たちが提案していることがクライアントのやりたいことと合致しているのか考えて、言語化すること』『御用聞きにならないように自分の意見をしっかり伝えること』が大切だと学びました」

営業としてさらに一皮むけた時期が電通デジタルへの出向でした。

会社の提案レベル向上のために。自らがその指標になり引っ張っていく

▲現在

▲現在

その後、2019年9月にD2Cに帰任。それからあまり時間が経たないうちに在籍していた部署とD2C Rが統合となり、D2C Rに籍が移る形となりました。

椿本 「2020年7月現在は、プレイヤー3・マネジャー7ぐらいの比率で働いています。職務でいうと、各チームや案件などに横串で関わり、戦略や運用など現状をより良くするような取り組みをしています。

ひと言で言うと『何でも屋』かなと。少しでも会社がいい方向に舵をきれるような仕事をしたいと思っています」

椿本は横断的に会社に関わっている立場上、メンバーには言いにくいような点もはっきりと伝え、改善案まで出すようにしています。

椿本 「正直ウザがられるようなこともあると思います。ただ、言わないと変わらないことも多いのでそこははっきり伝えるようにしているんです。また、各チームの職務領域を整理したり、絶対やったほうが良いと思う点には口を出して動かしたりするような取り組みもしていますね」

人によっては嫌だと思う役回り。椿本が率先して行うのには理由がありました。

椿本 「僕は過去電通に合計7年間いました。日本一の代理店で日本一のクオリティの仕事をしてきた自負があります。

どこまでやればクオリティがあがるか、クライアントのサービスレベルが高くなるのかの判断基準には自信を持っています。それを社内や後輩に還元していきたいんです」

自分の経験を生かしてD2C Rをさらにいい会社にしようと尽力する椿本。

椿本 「この会社にいたら刺激的だし、まだまだ勉強できることがたくさんある。及ばないと感じる方々もたくさんいる。だからもっとチャレンジしたい。そんな人たちが増えるような環境をつくっていきたいと思っています」

デジタル総合代理店へと舵を切るキーパーソンは椿本に間違いない。

株式会社D2C R

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