「なろう系」で主人公を無能呼ばわりしていた連中が最後に破滅 これって意味ある?
最近よく目にする「なろう系」という言葉。個人的には別に好きなジャンルではないんだけど、なろう系のフォーマットに押し込まれて金太郎飴みたいになった作品の広告を見る機会は非常に多い。
周りから軽んじられていた人間が、実は……みたいな、現実ではマジでありえないような話がウケるってんだから、なんか微妙な気持ちになってしまう。とは言えこのジャンル自体を好む人はきっと多いんだろう。(文:松本ミゾレ)
レディコミの姑に復讐系と変わらない?
先日、5ちゃんねるに面白いスレッドが立っていた。「なろう主人公『周りから無能扱いされてたけど実は有能でした』←まだ分かる」というスレで、スレ主は「『無能扱いしてた連中は破滅しました』←これ必要ある?」と書き込んでいる。
主人公を無能扱いしていた人たちが、のちにその無能扱いされていた主人公の活躍を知るなどして立場をなくしたり、破滅をする。そういう描写をする必要がどこにあるのか? というのはスレ主の問いである。
これに対して、色んな意見が書き込まれているのでちょっといくつか、かいつまんで紹介していきたい。
「ブラック企業で無能扱いされてた頃のワイの妄想みたいで恥ずかしくなるわ」
「作者の自己投影というより読者の共感を煽る為にやってるんじゃない? 要するに読んでる層が内心そのように感じてるんだろう」
「なろうで流行る前から主婦向けのコンビニ雑誌では人気ジャンルだったんだよな。有能なやつが失脚する展開。どこかでウケる話は別のところに輸入してもやっぱりウケるんや」
と、こんな具合に、なろう系の見返し展開については冷ややかな意見ってのが多い。引用した声の中にもあるけど、あれってやってることは30年も前のドロドロ復讐系レディコミと変わらないんだよね。
自分を蔑ろにした上司だの姑だのを、現実にはありえない展開でもって見返して過剰なまでに屈服させてしまうといった。ああいうものを子供の頃、母親が買ったまま放置してるのを読んでしまったことがあって、「肉親ながらなんてもん読んでんだ」って思ってしまったなあ。
たしかにカタルシスはあるが……
なろう系というワード自体はまだまだ新しいものだから、ついついそのフォーマットだけを見て失笑している人も多いだろう。しかし昔から、さっきで言うところのレディコミやら、地上波で言えばスカッとなんとかみたいなタイトルの、とにかく相手をギャフンと言わせたり、過剰なまでに恥をかかせたりといった内容のコンテンツは人気があった。
実際、そういうものを観て溜飲を下げる人もいるのだろうし、作り手だってニーズはあるので供給しているはず。究極的には全部作り話なので、主人公を冷遇していた側が見返されるという構図にはたしかにカタルシスもあるだろう。
でも、主人公を無能扱いした側の立場になってみると、なんか「そこまでおかしなことしてる?」という気がしてしまうところ。足手まといだったり、パーティーにいても役に立たない職業だったりを無能扱いして切っちゃうパターンは数多くあるみたいだけど、それってそこまで嫌悪されるべきことなんだろうか。
自分たちが効率よく目的を追求するためには、どうしても贅肉は落としたいって気持ちは分かるし、それを否定されて過剰に叩かれてもなぁ。僕だってサラリーマン時代に何人かで仕事してて、明らかに動きがトロい人いたら舌打ちぐらいしたし、これは誰しもそうだと思う。
ついつい主人公が見返す側だから応援しちゃうって人もいるだろうけど、無能扱いされるまで一切成長をしなかった人にも落ち度はあるだろうし。そういう人が邪険に扱われるのは、別に現実でもよくあることだし、意識していないだけで結構な人がそれをやっているか、見てみぬふりをしているものだ。
憎まれ役が「自分が軽く見ていた人間に見返された」程度の描写ならいいけど、過剰な破滅にまで至っちゃうと「それはちょっとやり過ぎでは」って思っちゃうよね。