「富山ブラック」黒すぎて塩辛すぎるラーメンは、涙の味がした | キャリコネニュース
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「富山ブラック」黒すぎて塩辛すぎるラーメンは、涙の味がした

写真:昼間たかし

「このスープは?油をそのままぶちこんでいるのではあるまいか」 初めて目の当たりにして、そう思った。黒い。何よりも黒いスープ。全国あちこちに存在するご当地ラーメンの中でも、見ためのインパクトで最強レベルなのが、富山市を中心とした地域に存在する「富山ブラック」だ。味も見た目そのまま濃厚というか強烈に塩辛い。独特の魅力があるラーメンだが、評価が真っ二つに分かれる存在である。(取材・文:昼間たかし)

21世紀になってから登場した新しい名物

ご当地ラーメンとしての「富山ブラック」は後発の部類に属する。その発祥は富山市内の「大喜」だとされている。2000年に創業者が引退を決めると、市内の食品会社が経営を引き継ぎ「西町大喜」の名でチェーンを展開し現在に至っている。

この「大喜」を元祖として富山市内で幾つかの店舗が存在していたのが、太麺を用いて真っ黒なスープに、山盛りのチャーシューとメンマ、大まかに刻んだネギをのせたスタイルのラーメンだ。

見た目の通りに塩辛く濃い味付けのラーメンは、戦後の復興期、白飯だけをぎっしり詰めた弁当箱やおにぎりを抱えた労働者が多かった時代に、ごはんのおかずになるラーメンとして生まれたものだという。

そんなラーメンが「富山ブラック」と称されるようになったのは2000年代前半になってからである。調べた限りメディアでの初出は『スポーツ報知』2003年12月5日付に掲載された北日本放送アナウンサーのリレーエッセイ。ここで同局の武道優美子アナは

「ちなみに、富山の醤油=しょうゆ=ラーメンは、スープがほんとに黒くて”富山ブラック”と呼ばれている」

と、記している。

続いて2004年に刊行された小野員裕の紀行本『ラーメンのある町へ!』では「西町大喜本店」「きりん飯店」が紹介されている。

その頃まで「富山ブラック」は富山県内でも富山市の限られた地域にしか存在しないラーメンであった。『読売新聞』2007年2月10日付朝刊に掲載された記事「富山なぞ食探検隊 富山ブラック」には

「隊員は高岡生まれだからか、黒いスープにはなじみがなかった。富山生まれの寺嶌隊長に聞くと、『おかずのラーメンやちゃ』」

とあるので、本当にエリアを限定したご当地グルメだったようだ。 そんなラーメンは2000年代半ばより全国展開を始めている。

東京への初進出は2004年3月に池袋三越で開催された「うららか・まんぷく富山物産展」に西町大喜が出店したこと。

2009年には、東京の駒沢オリンピック公園で開催された「ラーメンショーTokyo2009」に、射水市に本店をおく「麺家いろは」が出店、開催期間の三日間でトータル4041杯を売り上げ、参加した25店中のトップに輝いている。この頃には、東京を含め全国各地に「富山ブラック」を提供する店も出現した。

寿命を削って味わう美味さ

写真:昼間たかし

しかし、いわばこれが絶頂期であった。現在、東京で「富山ブラック」を味わえるのはヨドバシAkibaに入居する「麺屋いろは」の支店のみである。なんとも一時期の栄光に比べると、侘しさがある。

その理由はやはり、評価が真っ二つに分かれる独特の味だろう。なにしろ、塩辛いのである。「麺家いろは」は味付けに工夫しているようだが、ご当地そのままのスタイルは、とにかく腎臓が悲鳴をあげるレベルで塩辛い。

その塩辛さにとにかく白いご飯が進む。ラーメン一杯でどんぶり飯を軽く三杯は消費してしまう。

そう、元祖以来のごはんがすすむ美味さこそが「富山ブラック」の弱点ともいえる。塩辛さを味わうためには、大量の白飯が欠かせない。そうなると、どうしても美味しく味わえる年齢も限定されてしまう。さすがに40歳を過ぎて「美味いわ?」とラーメンをおかずに白飯をかきこむのは、自ら寿命を削る行為だろう。

その魅力こそが「富山ブラック」の限界を示していたのだ。

そんな「富山ブラック」には、悲しい思い出がある。

2015年の春、北陸取材のついでに訪れた「西町大喜」の本店。「弁当箱に白いごはんだけを詰め込んだ客を相手にしていた伝統で、メニューにライスが存在しない」「富山ブラックはご飯のおかず」その2つの情報を聞いた筆者は早とちりし、近所の店でライスを買って行った。そしてラーメンが運ばれてきて、おもむろにご飯を取りだし食べようとしたところ……

「お客さん、持ち込みはやめて下さい」

と、止められた。

悲しくご飯をしまって、すするラーメンは涙の味がした。なお、今は本店のメニューにもライスがある。

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