「この物件を見つけた時、すぐに魅了されました。なにしろ、自分にも手が届く価格の物件があるなんて……と、興奮すら覚えましたね」
現在の家に引っ越して7年目になる男性。男性にとって山手線内側は、一度は住んでみたい憧れの土地であった。
「もともと明治の文豪とか大好きなんです。漱石とか鴎外が住んでいたようなエリアに住んで、同じ空気感を味わってみたかったんです。生活の利便性とかよりも夢を実現するほうが家探しの重要なポイントでした」
文豪気分を味わうならば文京区など、いくつかエリアが絞られてくるが、「マンションでは十分に文豪の気持ちになれない」と男性は考えていたという。ちなみに妻は家を買うなら郊外の広めの物件を希望していたが、男性は資金のほとんどは自分が出すのだからと押し切ったという。
こうして男性は山手線の内側、しかも希望のエリアで物件を見つけた。価格は約5900万円である。
「面積は69.02平方メートル。安いだけあって、かなりの老朽化した物件ですが、リフォームはしてあったので大丈夫だと思いました」
難色を示す妻を説得して、物件を決めた男性。引っ越してから1年ほどは満足していたが、次第に問題を感じるようになった。
「約69平方メートルは、ちょっと狭く感じます。それに、階段のある家って面倒くさいんです」
69平方メートルもあれば、広さは十分じゃないかと思う人もいるだろう。しかし、男性は「むしろ狭い」という。
「家具を置けば部屋はかなり狭くなります。それに収納が少ないので衣服や日用品、食糧などをストックする棚なんかを設置していけば、たちまち部屋の何割かは埋まってしまいます」
加えて、建物は1階に部屋が二つと浴室・洗濯機置き場。2階にリビングと台所、トイレがある構造。洗濯物はルーフバルコニーに干すことになる。
「生活のために階段を上り下りすることが非常に多くて面倒です。それに、階段は掃除を怠るとすぐに埃まみれになりますし」
実際、階段がキツいだけでなく狭小な建物は「5900万円でこれ?」と驚くほどの狭さ。陽があたる時間は短い。隣近所も似たような物件なので、ハザードマップでは地震の際に倒壊や火災の危険の高いエリアだ。特に、妻が難色を示したのは地震の危険性だったという。
さらに問題を自覚したのは、住み始めてから2年後に子どもが生まれたこと。
「妻が妊娠中は階段は絶対に無理と言いだし、里帰り出産になりました。いまは多少マシになりましたが、子どもを抱えて、買い物袋を持って階段を上るのは苦痛でしたね」
「子どもが大きくなる前に、越谷あたりに引っ越そうと思っています」
コロナ禍では自宅滞在時間が延び、息が詰まる思いだったと男性は語る。
「家族でもずっと顔を合わせていると気詰まりで、ちょっとしたことが気になります。隣家とも距離が違いので、静かに暮らさないと迷惑だなと気を使いっぱなしでした。おまけに、妻からは『あなたは生活音がうるさい』と八つ当たりされましたし」
結局、男性の結論はこうだ。
「文豪の過ごした街で暮らすってことで『サライ』とか、小洒落た大人の雑誌みたいな気分を味わえると思ったんですが、無理です。だって、自分は文豪じゃないですから」
いまや猛省した男性は「子どもが大きくなる前に、越谷あたりに引っ越そうと思っています」と話す。しかし、男性はこの失敗で完全に懲りたわけではないようだ。
「人生の中でできる限り、様々な場所に住んでみたいとは思っているんです。ですので、今後は賃貸であちこちを点々としたいなとも思うんです」
なぜか「根無し草」に憧れる男性だが、会社勤めだけは続いているそうだ。