横浜の「山手」といえば、あこがれの高級住宅街。風格のある洋館が立ち並び、散策するとあちこちで歴史的建造物にたどりつく。とにかく、すごいオーラを感じるエリアだ。
でも、現地に行って庶民目線でみてみると、実はそんなに暮らしやすくないのでは? という気も…。今回は書籍『これでいいのか神奈川県横浜市』から、そんな山手町の特徴について紹介する。(文:地域批評シリーズ編集部)
歯医者までもが「荘厳なオーラ」
横浜を代表する高級住宅街にして、観光地ともなっている山手町。海に面して切り立つように存在する、歴史ある丘の町である。
山手が観光地化する歴史は、黒船来航による開国までさかのぼる。ペリーの脅迫に屈して江戸幕府は鎖国を解いた(超意訳)ワケだが、その際に開かれたのが横浜港、そして外国人居留区となったのが関内エリアだった。しかし、低地で湿気の多かった関内は嫌だ! と他人の家でわがままを言う外国人達に、新たに与えられたのがこの山手エリア。海に面した高台で、景観もバッチリということで、山手の丘は外国人達の住み家となった。
もっとも、最初から住宅地として提供されたワケではなく、まず領事館などの敷地として一部を割譲、その後軍用地として一部をイギリス、フランスに提供。その後も外国人は増え続け、結局山手一帯が駐留地として開放された。港の見える丘公園にある「フランス山」は、フランス軍が駐留していた名残だ。イギリス&フランス軍が山手に軍隊を駐留するきっかけとなったのが「生麦事件」。教科書に載るレベルの歴史があるのがこのエリアの特徴だ。
他に有名所として外人墓地もある。ペリーが二度目に来航した際、うっかりマストから落っこちて死亡したロバート・ウィリアムズが埋葬者第一号。というか、彼のうっかりのおかげで、幕府はペリーから「今後も誰か死ぬかも知れないから、専用の墓地を用意しろ!」と難題を吹っかけられた。ちなみに埋葬者第二号もマストからの転落死だから、ペリー艦隊はうっかり揃いだったようだ。
外国人が多い関係から、多くの教会も建てられた。山手カトリック教会、山手聖公会などが現存し、周辺にミッション系女子校が多いのも山手がキリスト教布教の中心地だった影響大。エリスマン邸や山手資料館など、かつて外国人が住んだ洋館も多い。歩いていると次々洋館や教会が見えてくるのだが、お次は何だ、とゴシック風建物を見たらなんと歯科医院で驚いた。立派な建物が多いエリアだけに、クマさんがでっかい歯ブラシ持っているイラストなんかは似合わないんだろうが、歯医者までもが荘厳なオーラをまとうエリアなのである。
坂だらけで、暮らしにくくない?
山手が外国人専用の居留地ではなくなったのは、1899年(明治32年)。そしてその後の1923年、関東大震災で被害を受けてからは外国人居住者が他エリアへと引っ越していき、その後は日本人も住み着き始めた。が、庶民がおいそれと住める土地ではないワケで、当然ながら金持ちが大邸宅を建てていき、高級住宅地・山手が完成した。山手本通り沿いには教会や学校、外人墓地と元町公園などがある観光地的エリアで、その周辺が住宅地エリアとなっている。まぁ住宅地の中に突然歴史的建築物が現れたりもするが。
坂が多い横浜ではあるが、エリア全体が丘である山手は、当然ながら延々と坂、坂、坂だらけ。しかもかなりの急勾配で、正直とてもじゃないが暮らしやすいとは言い難い。にもかかわらずブルジョワ連中はお山から降りようとはしないようで、正直どうやって暮らしているのか非常に疑問だ。由緒ある建物だらけなせいで、この周辺には生活臭が皆無であり、商店などもふもとまで降りないと何もない。こんな所に住んで何が楽しいのやら、などと考える時点で「思考が庶民」なんだろうなぁ。
■書籍情報
『これでいいのか神奈川県横浜市』
著者:小森雅人氏、川野輪真彦氏、藤江孝次氏編
価格:790円+税
発行:マイクロマガジン社
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