結局は運?「なぜパチンコで毎回負けるのか」という書き込みに思うこと
この世には、不思議なことが溢れている。今回は、あるオカルトについて論じていきたい。
そのオカルトとは、“運”。年の瀬の、年末ジャンボの販売期間というこの時期に、どうしても運についての話をしていきたいのだ。
先日、5ちゃんねるに「徹底討論 なぜわいはパチンコで毎回負けるのか」というスレッドが立っていた。スレ主はパチンコで毎回負けているらしい。(文:松本ミゾレ)
適当な立ち回りでも勝ち越す人はいる
「徹底討論」とうそぶいているが、本文を見ると「不思議や 当たっても続かないし」という一文以外、一切の続報がない。根気がないにも程があるだろと思ってしまうが、それぐらいのこともできないほどに、手痛くやられてしまったのかもしれない。
でも自分で討論を持ち掛けておいてスレッドの立て逃げをするなんて。そういう中途半端なところがギャンブルでの負けに通じてんじゃないの? と思わないでもない。たとえばせっかく釘が開いててボーダー以上に回る台を掴んだのに、「お腹空いたからやめよっと」なんつって手放したり。かと思えば全然良くない台を「今日は暇だから」という理由でツッパしたり。
この人がそういう人かどうかは知らんけど、このような立ち回りをしているとどんなギャンブルでも負けるのは当然だ。
しかし世間には、この人のような甘い立ち回りでギャンブルをしているのに、何故か俯瞰で見ると負けてないというか、勝ち越している人というのがたまにいる。不思議なもので、こういう人たちって凄い適当に遊んでるのに、博打の神様に好かれているのか、気づくと勝っているのだ。
そりゃあ1日単位では勝ち負けも荒れるんだけど、たとえば1年。たとえば5年。さらには10年、20年とその収支を見返すと、ウン百万程度のプラスになっていることが、ままあるのである。
さすがに数千万のプラス域の人というのは、ガチのパチプロぐらいにしかいないけど。とにかく、さしたる努力もなくても何故かトータルで浮く人は実在しているのだから面白いし、そういう人を見るたびに僕は、「運って人によって総量が違ったりするのでは?」と思ってしまうのである。
ギャンブルに強い人は、なぜか最初から強い
不思議なもので、パチンコ、パチスロだけでなく宝くじなど公営賭博、果ては麻雀に至るまで、ギャンブルに強い人って最初から強い傾向がみられる。この「最初から」とは、まだ特に知識もない段階から、すでに普通に遊んでても利益を得やすい傾向にある、という意味である。
たとえばパチンコやパチスロなんてやらせてみると、勝てる人って他の人よりも連チャンすることが目に見えて多かったりする。仕様をよく知らないまま、いきなり重いフラグを引き当てたりして、たまに閉店まで出っぱなしということもある。
麻雀をやらせてみれば「初めて打つんだよね」というのでとりあえず同じ牌を集めれば七対子って役になるとだけ教えたところ、毎回七対子にドラ乗せまくりで和了してみたり。
不思議だけど、そういうことができる人っているのだ。
逆にギャンブル依存症なのに全く収支面がダメな人は、本当に単発で終わったり、初当たりを得るまでに確率以上の試行回数が毎回毎回必須という感じになりがち。毎回数万円使って、やっと引き当てた当たりがすぐに終わったり、そもそも当たらないまま軍資金が尽きるということに遭遇しやすい人ってやっぱりいるのだ。
そこまでギャンブルの運に見放されているならやめればいいんだけど、当人はもう依存症になっているからそれもできない。不運が雪だるま式に膨らんでいるようにも見えて、他人事ながら恐ろしい気持ちにもなる。
そのうち低貸ししか打てなくなってね。それでもパチンコホールに出向いて負けたら文句をいうんだけども、そもそも軍資金が乏しいからろくな勝負もできないことを忘れてるから色んな意味で怖くなる。
よく、確率は収束するという言葉を僕のようなギャンブル好きは口にするんだけど、別にそれが本当のことだとは思っていない。そもそもパチンコ、パチスロ機の公表している確率なんて本当に正しいか分からないし、何十万回と試行した結果の収束値が公表値とやっと近似性が出てくるという話なので、収束なんか気にして打つ人なんてそうそういないと感じている。ジャグラーとかは別だけど。
オカルトな話の仕方をするならば、やっぱり確率って収束しないのだ。そしてギャンブルの勝敗を決めるのは、実はその人の運こそが大事で、これが勝ち負けに関与していると、僕なんかは学がないものだから、そう思っちゃうんだよね。