「大学教授になりたい」気がつけばスキル皆無で50歳を迎えた人
近ごろ聞く言葉に「実家が太い」という言い回しがある。裕福な家庭に生まれ育ったことを指す言葉だ。「実家が太い」と、学費の心配をせずに学校へと通えたり、習い事などでたくさんの体験をできたり、人脈を広げたりと様々なチャンスが得られるものだ。しかし、そのチャンスを活かして夢を叶えられるか、となると話は別で……。(取材・文:広中務)
カネはあるけど人生の夢は叶わず50歳
今回、話を聞かせてくれたのは神奈川県在住の男性。先日、50歳の誕生日を迎えた。男性の職業は本人の申告によれば「時々、大学で教えている」ことだという。
「毎週、数コマ大学で学生を相手に講義をしています」
大学で教えるのはものすごく高度なことなのだが、その肩書きは「非常勤講師」。この仕事で稼げるのは年間300万円程度で、しかも次年度も契約してもらえるかどうかは不明という、極めて不安定な職業だ。
しかし、この男性「去年、マンションを買いました」と、極めて裕福そうな話しぶりだ。
僅かな年収でも裕福な生活を送ることができる、その秘密は「副業」である。といっても、実際は親の手伝いなのだが。
「親の所有するアパートやマンションを管理する会社の役員ということになっています。ですので、仕事は不動産管理業といったところかも」
この仕事で毎月、役員報酬として40万円程度を得ていることに加えて、様々な名目で「経費」を得ているというから生活が裕福なのも頷ける。子供はいないが既に結婚もしている。
そんなに経済的に安定していれば、毎日が幸せそうだが、男性はまったく幸せそうにはみえない。
「本業のほうはまったく未来がありません。大学で教えているとはいえ非常勤講師では、誰も尊敬してくれませんから」
もともと学者志望だった男性は、都内の中堅大学を卒業したあと、同級生が就職していくのを横目に大学院に進学した。そのころは「将来どこかの大学の教授になれる。それが無理でも博物館の学芸員くらいにはなれるだろう」と考えていたという。
「毎月、親から小遣いが10万円。それ以外にも必要な時には必要な金額を貰えたので、アルバイトも博物館とか研究所の手伝いをした程度です。研究だけしていれば、そのうち教授がどこかのポストを紹介してくれると思っていたんです」
彼は結局、30歳直前まで博士課程に在籍した。しかし、残念ながらそちらの道はまったく拓けなかったそうだ。
「今思うと教授に嫌われていたんだと思います。同級生は必死に生活費や学費を工面している中で、自分は毎日、大学近くの寿司屋で夕食をとっていたり、生活に余裕があるところを見せつけていましたから」
それだと、同級生どころか、担当教授より豊かな食生活かもしれない。「学生の立場でそこまで裕福な人に、優先的に職を紹介する必要はない」と教授が考えても無理はないだろう。
さてはて、男性も「このままではいけない」と大学教員の公募などに応募してみたが、そこは1名の募集に何百もの応募が殺到する狭き門。おまけにこの頃には、世の中には自分より優秀な人間がいくらでもいることが男性にも理解できていた。
「教授に泣きついて紹介して貰ったのは、博物館の非常勤職員です。そこは1年で契約は終了して、別の博物館や研究所などをぐるぐると回って……なにもスキルを身につけることがないまま年齢だけ重ねてしまいました」
50歳を迎えた男性は、最近こんなことに気づいたという。
「別に学問が好きだったわけじゃなかった。ただ、大学教授になって人から尊敬されたかっただけだったんです」
大学教授のような、ものすごく競争率の激しいポジションを得るためには、動機が「尊敬されたい」だけだときついのかも……。
将来的に、親の不動産を相続する男性の人生には、これからもなんの問題もないはずだ。しかし、それでも、男性の表情は不幸そうだった。